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鉄腕麗人さんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 2598
性別 男性
ホームページ https://tkl21.com
年齢 43歳
メールアドレス tkl1121@gj8.so-net.ne.jp
自己紹介 「自分が好きな映画が、良い映画」だと思います。
映画の評価はあくまで主観的なもので、それ以上でもそれ以下でもないと思います。

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341.  バケモノの子
細田守のアニメーションは、夏がよく似合う。 夏休みが始まったばかりの日曜日の初回上映に観に行って、案の定親子連れや子供同士の観客が多かった。僕自身はいつもの様に一人での鑑賞だったけれど、少しばかり夏休み気分を分けてもらうことができた。  自分自身、ここまで四年間、子を育ててみてつくづく感じることだが、子はもちろん親によって育てられるが、同様に親も子によって育てられるものだと思う。 子は育つ。親も育つ。両者は互いに関わりあい、離れつつ、結びつきつつ、共に生きていく。 “人間”の子と“バケモノ”の親による「親子関係」は、どこまでいっても擬似的なのかもしれないけれど、そういう育ち育てられるという関係性が分かりやすく表現されていたと思う。  特に、主人公の少年時代を描いた前半は、極めてアニメ的な愛らしさと活劇性に溢れていて秀逸だった。 前作に続いての起用となった宮崎あおいの声が、少年時代の主人公のキャラクター性に合致していて、この主人公の言動を見ているだけで楽しいアニメーションに仕上がっていたと思う。  アニメ映画としてのクオリティーは申し分ない。きっと万人が楽しむことが出来る作品だろうと思える。 ただし、だ。“細田守の映画”として、過去作並のインパクトがあったかというと、正直そこは首を横に振らざるをえない。  今作を観終えてみると、やはり“前作”の特別感が際立ってくる。 同じく、異型の存在と親子関係を描いた前作「おおかみこどもの雨と雪」が傑作過ぎたのだと思う。 「おおかみこども〜」が深く踏み込み描きぬいた世界観と比べると、今作の物語はどうしてもありきたりで浅はかに思えてしまう。  主人公が成長した後半は、バケモノの世界と人間の世界が絡み物語のフィールドは広がっている筈なのに、ストーリー的な可能性は狭まり、残念ながら作品そのものの質が下降していくようだった。 主人公の人間世界への復帰のくだりが少々都合良すぎたり、後半になって登場するヒロインの存在価値が今ひとつ希薄だったことが、その要因だろう。  無闇に直接的な人間世界への介入を描くこと無く、「サマーウォーズ」のような創造的な世界観の広がりを見せて欲しかったと思う。   とはいえ、そういった「難癖」は細田守という人が、宮﨑駿去りし後の国内のアニメ映画界の頂上に存在し得る映画監督だからこそのものである。まったく我ながら映画ファンというものは欲深いものだ。
[映画館(邦画)] 6点(2015-07-26 22:41:38)
342.  LUCY ルーシー
まず、リュック・ベッソンは、主演女優のキャスティングにおいて、いまやハリウッドのトップスターであるスカーレット・ヨハンソンをよく口説き落とせたなと思う。 フランス資本単独になっていることから察するに、それほど製作資金を集められたわけではないだろうが、この監督の良い意味での“女たらしぶり”は健在といったところか。  リュック・ベッソンが“魔法”を失って久しい。 「グラン・ブルー」「レオン」の頃の彼の映画がもたらす世界観はとうの昔に消え去っている。 “かつて”彼の映画の大ファンだった僕自身も、近年は諦観の構えで観始めることが通例となっていた。 今作においても、もちろんその構えは変わらず、ハードルを下げきって鑑賞に至った。“EuropaCorp”のクレジットがそれに拍車をかけた。  はっきり言って、“トンデモ映画”であることは間違いない。 “運良く”ハマらなければ、酷評は避けられないのだろう。 けれど、幸運にも僕はこの映画が面白かった。  その幸運の要因としては、やはり僕自身がリュック・ベッソン作品のファンであったことが大きい。 特に、世間では批判の方が多かった1997年のSF映画「フィフス・エレメント」をどこか彷彿とさせる世界観が、あの映画が大好きな僕の琴線をくすぐったのかもしれない。  パラミシア的な能力を覚醒させるヒロイン像は、ビジュアルやキャラクター性も含めて、まさに「フィフス・エレメント」でミラ・ジョヴォヴィッチが演じた“リールー”の系譜だろう。 それは完全にこの監督の嗜好で、成長がないと言ってしまえばそれまでだけれど、僕自身の嗜好も同じなのだから否定するわけにはいかない。  クライマックスにおける“血迷い感”すら覚える強引な大風呂敷の広げ方も、「フィフス・エレメント」の“トンデモぶり”と類似している。 勿論そこに論理的な整合性なんて無いに等しいのだけれど、そういう荒唐無稽なストーリーテリングと世界観が唯一許されるのも、SF映画の特性と言えると思う。 そして、リュック・ベッソンのSF映画はこうでなくちゃとも思える。  一方、こちらも何故出演に至ったのか経緯がよく分からないが、韓国映画界の名優チェ・ミンシクの悪役ぶりも光る。アジアが誇る名優の無駄に贅沢な狂気は、スタンスフィールド的(レオン)な悪役像で、この趣向もファンとしては嬉しかった。  決して良い映画ではないが、映画として「好き」と言わざるをえないのだから、仕方がない。  猿人“ルーシー”とスカーレット・ヨハンソンの邂逅シーンには、よくもまこれほどまで美しく「進化」してくれたものだと、壮大なる時の流れに感謝をせずにはいられなかった。
[CS・衛星(字幕)] 8点(2015-07-26 00:04:16)
343.  WOOD JOB! ~神去なあなあ日常~
神々しく、雄々しい、“あるもの”に見立てた巨木が、“あるもの”に見立てた的めがけて突っ込むという「奇祭」の様を描いたクライマックス。 これほどまであからさまで、大々的な“下ネタ”を、堂々と映画のクライマックスで映し出す映画もあるようでなかなかない。  大なり小なりの下ネタが終始挟み込まれる映画ではあるけれど、この映画は決してふざけているわけではない。 「林業」という伝統的な生業を主題として描き出すことで表れてきたものは、人が自然と共に生き、長い年月に渡って“生命”を受け継いでいくという崇高な精神であり、生命を継ぐということにおいて必然的に存在する「性」に対しての真摯な態度だったのだと思える。 その結果、コメディ映画として“下ネタ”満載となったということは、あまりに真っ当な“映画づくり”だと思う。  その矢口史靖監督の安定した映画づくりの中で息づいた俳優たちが、良い。  何と言っても素晴らしいのは、伊藤英明。彼の野性味溢れる雄々しさこそが、この映画のテーマそのもののようにすら思える。実際に百年杉を切り倒すというリアルな娯楽性も、この俳優がやってみせたからこその説得力に溢れていた。  主演の染谷将太は、いつもの様に陰にこもりがちのナイーヴな若者を体現しつつも、映画の展開に合わせて徐々にテンションを全開にしていく俳優としての巧さを見せてくれる。公開時は染谷将太がコメディ映画に主演することに懐疑的だったが、見事に主人公を演じきり演者としての幅を広げてみせたと思う。  ヒロインの長澤まさみも良い。疲弊しきった表情の“すっぴん”姿で初登場してみせた彼女の女優としての信頼度は、最近急激に上がってきている。このアイドル的要素が強かった人気女優は、確実に本物の女優へとステップアップしていっている。   「ええ仕事をしたかどうか、結果が出るんは俺らが死んだ後なんや」 と、光石研演じる木材会社の社長が言う。  一人の人生のスパンでは成果を見ることもできない「林業」という特異な職業と、それに人生をかけて従事する杣人(そまびと)という男たちの生き方。 次世代に命を継いでいくという大真面目なテーマを礎にした、必要不可欠な下ネタのオンパレード!優れたコメディ映画とは、こういうものだというお手本のような映画であると思う。
[CS・衛星(邦画)] 7点(2015-07-16 22:35:28)
344.  トランセンデンス(2014)
世界随一の科学者の頭脳がインストールされた人工知能。 そこには、オリジナルの“人格”が生きているのか、全く別物なのか。 人類を遥かに凌駕する程に進化した人工知能の“暴走”は、一体誰の思いが結実したものだったのだろうか。  社会構造の機械化、コンピューター化が進む世界における危機意識は、昔からSF映画で描き出されてきたことで、今作もその潮流を汲む作品の一つと言える。 愛する者の頭脳をインストールした人工知能を渦中に置き、人類とコンピューターとの関係性を抉り出そうとした興味深いSF映画だったとは思う。  今作を観ていて思い出されたのは、「地球爆破作戦」(1970年製作)という映画だ。 超高性能の人工知能が、プログラミングされた「目的」=「平和」を遂行するために、人類を支配下に置こうとする恐怖を描いた傑作SF映画である。 人類と人工知能との攻防を描くという点はもちろん、真の意味で世界を滅亡させようとしているのは一体どちらかというテーマ性も極めて類似していると思う。  今作ではそのテーマ性に、普遍的な夫婦愛が加味され、より多感なドラマ性が生まれていたと思う。 繰り返しになるが、興味深いSF映画であったことは間違いないし、決して嫌いな映画ではなかった。 が、しかし、映画としての芳醇さというか、観客を引き込む本質的な魅力みたいのものが、大事なところで足りなかったと思う。  この映画の主人公は、人工知能に生前の頭脳をインストールされた天才科学者の夫ではなく、彼を誰よりも愛し失意の中で“禁断”の進化を選んだ妻であろう。 であるならば、もっとこの妻の愛情とそれ故の狂気を深く描き出すべきだったと思う。 そうしたならば、ジョニー・デップ演じる“人工知能”の夫の中の「人格」の有無がもっとスリリングに、もっとエモーショナルに際立ったのではないか。  実際、そういう風に描き出そうとはしていたのだとは思う。 ただそれに見合う演出力とイマジネーションが、長編デビュー一作目の今作の監督には明らかに備わっていなかった。 監督のウォーリー・フィスターは、クリストファー・ノーラン組でずっと撮影監督をしてきた人物なので、その技量は申し分ない。当然ながら今作でもビジュアルセンスの確かさは光っていたと思う。  ただし、映画として人々の記憶に焼き付けるためには、撮影技術とは違うベクトルの創造力が必要不可欠だということだろう。 例えば、人工知能の「意思」が雨粒となって地上に降り注ぐシーンなどは、クリストファー・ノーランならば、これまで観たことがない新鮮味と神々しさに溢れるシーンに仕上げたに違いない。 また夫が妻の“嘘”を見破るシーンが、序盤と終盤で対比的に描き出されるのだが、その差異の描き方もちょっと中途半端で分かりづらかった。こういう部分も、一流の映画監督であれば感動のポイントとして逃さないだろう。  もしくは、ジョニー・デップをキャスティングしていなければ、もっと適正なバランス感覚で仕上がったのかもしれない。 人工知能の夫としてのビジュアルは殆ど映し出さないくらいの低予算方針で撮ったならば、逆に味わい深いSF映画として仕上がったのではないだろうか。
[CS・衛星(字幕)] 6点(2015-07-15 23:32:05)
345.  フライト・ゲーム 《ネタバレ》 
冒頭、主人公がウイスキーを紙コップに注ぎ歯ブラシでかき混ぜる。 この主人公の男が明らかにうらぶれていて、拭いがたい負い目を抱えて生きていることが一発で分かるオープニングだった。 その主人公を、リーアム・ニーソンがお馴染みの“困り顔”で演じているわけだから、それだけで“リーアム・ニーソン映画”としては太鼓判を押していいのかもしれない。  「シンドラーのリスト」「レ・ミゼラブル」「マイケル・コリンズ」など、かつては歴史大作や文芸大作を主戦場に渋く濃厚な存在感を示していたこの俳優が、“ジャンル映画”のスターとなって久しい。 彼の俳優としての立ち位置に対しては、映画ファンによってその是非が分かれるところだろうが、とはいえ実際ハマっている映画も多いので、「面白い」のであればそれが正義だと思う。  今作にしても、ジャンル映画としての存在価値は充分に発揮している。 ストーリー上の穴や粗など端から無視を決め込むか、それ有りきで楽しむべき立派な“リーアム・ニーソン映画”だ。  ストーリーテリングとしては、ヒッチコックの「バルカン超特急」に端を発する“誰も信じてくれない”系サスペンスで、舞台が航空機内とういこともあり、ジョディ・フォスターの「フライトプラン」にも酷似しているが、リーアム・ニーソンの近年持ち前の“危うさ”巧く機能しており、観客すらも彼に対して疑心暗鬼になってしまう。  ジュリアン・ムーアを初めとして、脇を固める俳優陣も地味に豪華で、主人公と観客の“疑心”を効果的に深めている。 結末を知った後で、オープニングの群像シーンを観てみると、それぞれにキャラクターにおいて細やかな演出がされていて、それはそれで面白かった。   それにしても、思わず口走ってしまった“一年間乗客無料サービス”の約束は果たされるのだろうか。反故にされた場合は、訴訟を起こす輩が一人くらいはいそうでコワい。
[CS・衛星(字幕)] 7点(2015-07-15 23:27:55)
346.  海街diary
「家族」って、とても面倒なものだ。でも、だからこそとても愛おしいものなのだとも思う。  私的なことだが、今年自分自身が家を建てることもあり、いつになく自分の家族や親戚とコミュニケーションを取らなければならないことが多い。 それ自体は、至極当然のことであり、幸福なことであるはずだけれど、そのコミュニケーションの中で、時折、いや頻繁に、自分自身が生まれ育った家族が見せる“弱さ”や“無理解”に対して、寂しさと憤りを感じる。 それは、僕自身の“弱さ”と“無理解”が露呈し、合わせ鏡のように相手に写っている結果であることは重々承知している。 ただし、それらを認め、何の不満もなく素直に受け入れられるほど、僕も、家族も、完璧なわけではない。  「家族」の中の些細な“ほつれ”は、そのまま些細なものとして消え去ることもあるし、小さな不満が募り不幸を呼び寄せてしまうこともあるだろう。 「家族」の形態は様々だけれど、ほとんどすべての人達は、そういう普遍的な危機感を孕んだ危ういバランスの上で、小さな人間関係を築き、支えあっているのだと思う。   随分と愚にもつかない前置きが長くなってしまったけれど、詰まるところ、この映画は、“四姉妹”を中心とした、「家族」の物語であり、穏やかで優しい時間の流れの中で、彼女たちが根本的な部分で持ち続ける人生の“苦味”を垣間見せる傑作であると思う。  普遍的な人間関係の機微を、極めて細やかに、それでいて卓越した技量で描き出したこの映画は、一つ一つのシーンの意味を言及するほど野暮になる。 ただ、最初から最後まですべてのシーン、すべてのカットが、映し出された瞬間に「名作」のそれだと分かる。  当然ながら、四姉妹を演じた4人の女優は、みんな素晴らしかった。 一見、人気漫画の映画化に際して人気女優たちを集めただけのようにも見える。しかし、実際にこの映画世界の中で息づく彼女たちは、“四姉妹”以外の何者でもなく、それぞれが息づく様をずうっと観ていたくなる。 この奇跡的なキャスティングそのものに幸福感すら覚える。ただそれも、一流の監督のなせる技なのだろう。   4人揃って砂浜を歩いていく姉妹たちの道程は、きっとこの先枝分かれしていく。 その度に彼女たちは、時には「面倒」と思いつつも、悲しみつつ、怒りつつ、相手のことを思うのだろう。 それはきっと、正しい家族の在り方の一つなのだと思う。
[映画館(邦画)] 10点(2015-07-10 23:19:36)
347.  マッドマックス 怒りのデス・ロード
「マッドマックスは何日から上映開始よ?」と、父親からメールが入った。 既に上映開始の第一週目だったので、「もう始まっているよ」と返した。  公開間際になって世間の好評がビンビンと伝わってきていたので、映画館に足を運ぶべきだと思ってはいたが、実父から届いたそのメールが劇場鑑賞の“決め手”となったことは間違いなかった。   映画館に映画を観に行くということが日常となったのは、小中学生の頃に父親に連れられて行ったことがきっかけである。ただ時は経ち、父親はめっきり映画館に足を運ぶことは少なくなった。 そんな父親からのそのメールからは、彼らの世代の映画ファンにとって「マッドマックス」がいかに特別なものなのかということを強く感じることができた。  実は、僕は「マッドマックス」を観たことがなかった。 この“最新作”の直接的な元となった「マッドマックス2」は1981年公開。僕自身が生まれた年である。 曲がりなりに“映画ファン”を自負するものとして、「マッドマックス」を観たことがないということは情けない限りだと思う。  今夏(2015年)のエンターテイメント大作事情は、例年以上にリメイク&リブートを含めたシリーズ最新作の色調が濃いラインナップとなっている。 「ターミネーター」「ジュラシックパーク」「ミッション:インポッシブル」etcとそうそうたる顔ぶれの中で、“マッドマックスの最新作”という触れ込みに対しては、正直なところ食指の動きが鈍かった。 その要因としては、ずばり「世代ではない」ということが最たる理由だったと思う。 自分自身が生誕した年前後に公開された映画というものは、新しくもなければ、古過ぎもせず、映画ファンとして遡って干渉するにはとても中途半端なものである。   随分と前置きが長くなってしまったが、この映画に対して言いたいことはただ一つ。  “激アツ”  あまりにチープなことは認めるが、その一言に尽きる。 熱い!熱苦しい!いやもう凄いよ!と言わざるをえない映画の熱量に圧倒される。   終末戦争後の世紀末。荒廃し枯渇した世界に残されたものは、果てしない飢えと、狂気。 留まっても地獄、進んでも地獄、ならばどうする? 常識や倫理観など存在すらしない世界の中で繰り広げられる“生”と“死”の止めどない攻防を、ただただ目の当たりにしたという“感触”。  手放しで絶賛したい。が、“オリジナル世代”であれば、もっともっと楽しめたのではないか?という疑問符が残った。 それは、単に過去作を観たことがあるかないかということではなくて、「マッドマックス」という映画体験が、人生の中に刷り込まれているかどうか。 その“体験”の有無によって、今作の価値は大いに変わるような気がしてならない。 そのことが、映画ファンとして、なんか悔しい。
[映画館(字幕)] 9点(2015-06-26 23:37:14)(良:1票)
348.  くもりときどきミートボール2 フード・アニマル誕生の秘密
前作の「エイリアン」「インデペンデンス・デイ」オマージュに続き、今回は完全に「ジュラシックパーク」! 正々堂々とパクって……いや、オマージュを捧げている娯楽性がまず楽しい。それだけで、アニメーション映画としての及第点は満たしていると思える。  前作は、過剰なほどにポップなビジュアルにそぐわぬ「飽食」に対しての意外にも深いテーマ性と、シニカルなブラックユーモアの連続で彩られた万人向けというよりも、むしろオトナ向けとも言えるアニメーション映画の傑作だった。  食べ物が“災害”として襲ってきた前作は、その描写の下品さに対して文化的に若干引いてしまう部分もあったが、今作はありとあらゆる食べ物が大なり小なりの“アニマル”として登場し、ただただ愉快で可愛らしい。  前作と同様のテーマ性なりを期待しすぎてしまうと、この続編への拍子抜けは避けられないかもしれない。 けれど、今作はメインとなるテーマを主人公を中心とした普遍的な人間関係に絞り、敢えて良い意味での子供向け路線にシフトチェンジしているのだと思う。 そして、これはこれで充分過ぎるほどのクオリティーを備えたアニメーションだったと思う。
[CS・衛星(吹替)] 6点(2015-06-26 23:33:06)
349.  トゥモローランド
この映画を観る前の日中は、愛娘の幼稚園の行事に参加してきた。梅雨の合間の炎天下、我が娘も含めて、数百人の子どもたちがわらわらと駆け回っていた。 そんな日の夜に観たからこそだったのかもしれないけれど、僕はこのSF映画が伝えるメッセージを素直に受け止めることが出来た。 それは、映画ファンとして、子を持つ父親として、とても幸福なことだったと思う。   映画の冒頭、少年時代の主人公が、自作したジェットパックで未来都市を飛び回る。 このシーンをはじめとする「未来」を目の当たりした問答無用の高揚感こそが、この映画の総てだと言っていい。 映し出された未来像に対して“ワクワク”するというあまりに普遍的なSF映画の本来あるべき姿がそこにはあり、同時にそれを素直に肯定することが出来ない現代社会の病理も表しているように思えた。  無邪気だろうが、浅はかだろうが、「明日」を夢見なければ「未来」はない。 未来に希望を持てないなんて悲しすぎるし、希望を持てないことを誰かのせいにして、ある意味開き直って、あたかも絶望を抱える方が当たり前だと言わんばかりに、世界の退廃を受け入れるなんてまっぴらだ。  この映画が導き出したテーマを、「選民意識」の表れだと批判する人が多いらしい。なんて見当違いで、愚かなんだと思わずにはいられない。 確かに、この映画のラストでは、より良い未来を担うべき者の選抜が描かれてはいる。 そこに、未来という次のステージに今この瞬間の全員を連れていけるわけではないというある種の非情さが表れていることは確かだとは思う。 ただしそれは、才能に秀でた者が、才能に秀でた者を選民しているわけでは決してない。  「未来」という夢と希望を担うべき人材を、「才能」ではなく、それを諦めない「意志」で選ぶことを理想として導き出したこの映画を、僕は決して戯れ言だとは思いたくない。 それを「選民意識」なんて捉え方をすることこそが、未来に対しての逃げ口上だと思えてならない。  もちろん、困難や問題は尽きない。特別な才能があろうが、なかろうが、絶望することは容易だろう。 しかし、自らとそれに追随する若い命のために、「明日」という世界を作り続けなければならない。 そのために必要な物が夢や希望だと言うのならば、何がなんでも、僕はそれを追い求めたい。
[映画館(字幕)] 7点(2015-06-21 23:27:26)(良:1票)
350.  映画 けいおん!
この作品における「青春」。それは、“非現実”という多幸感だ。 現実を執拗に突き詰めていく青春劇も勿論あろうが、敢えてそれ(現実)を無視することで生まれる幸福と娯楽。この作品の在り方が意図することは即ちそういうことだと思う。  と、意識的に堅苦しく綴ってみたが、要は何の事はない。 軽音部の彼女たちに対して、“萌え萌え”の“ペロペロ”だったということに尽きる。 はっきり言って、そのこと以上に特筆するべきところなどなく、それが総てで良いのだと思う。  テレビシリーズは未見。 当然登場するキャラクターたちに何の思い入れもないままこの映画化作品を観始めた。 ストーリーは非現実的だし整合性もなくグダグダ感に溢れている。作品として鑑賞後の満足度が高かったわけでもない。 けれども、まんまと彼女たちの一挙手一投足に萌え、「テレビシリーズ観たいかも……いや観たい!」と思わせたこの映画の在り方と、アニメーション技術の確かさは、まったくもって正しいのだと思える。  この映画作品では流石に泣けなかったけれど、テレビシリーズを観終わる頃には号泣している自分の姿がわりと容易に想像できてしまう。
[CS・衛星(邦画)] 6点(2015-06-14 23:25:28)
351.  パークランド ケネディ暗殺、真実の4日間
劇中、“二つの棺”が運ばれていくシーンが、序盤と終盤に対比的に描かれる。 一つは、第35代アメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディの棺。そしてもう一つは、“JFK”暗殺の実行犯とされたリー・ハーヴェイ・オズワルドの棺だ。 両者の棺を運ぶ者の心情は大いに異なるはずだが、その様はどちらもややぞんざいに扱われているように見える。 そこには、「この棺を運びたくなんてなかった」という、同じ言い回しだけれど全く真逆の意味合いを持つ、それぞれの死に関わった人々の感情が漏れているように見えた。  英雄の暗殺と、その実行犯とされる者の暗殺。この二つの死が人々に与えた影響はいかなるものだったのか。 今作は、偶然にもそれに関わってしまった人たちの心の損失を描き出している。 「JFK暗殺」を描いた映画は多々あるが、この作品の視点は意外にも新しく、それでいて真っ当だったと思う。 他の多くの作品が暗殺にまつわる陰謀説を主軸に描いているのに対して、今作はあくまでも事件現場となった街に居合わせた市井の人々の様を描いている。 そういう意味では、JFKの実弟であるロバート・ケネディ上院議員の暗殺事件を描いた作品「ボビー」にとても良く似た映画だったと思う。  稀代の英雄の死を目の当たりにした人々にとって、本当の犯人が誰かなんて追求する余裕はなかっただろう。 自分たちが住んでいる場所で、世界で最も重要と言って過言ではない人物が殺されてしまった。 ただひたすらに、その悲しみとショックに打ちひしがれるしかなかったのだろうと思える。  その人々の動揺と混乱の中で、もう一人の男が“真相”と共に闇に葬られた。 その男にも勿論家族がいて、市井の人々以上の動揺と混乱を強いられていた。  彼らの死から50年が経過した。 数多くの疑惑と陰謀説は渦巻き続けるが、いまだ真相は闇の中。 いつの日か時代は真実をさらけ出すことが出来るのだろうか。
[CS・衛星(字幕)] 7点(2015-06-13 00:35:40)
352.  トランスフォーマー/ロストエイジ
165分の取り留めのない映像的物量の「羅列」を、グッと耐えるように観終えて思う。 これは、マイケル・ベイ監督渾身の「自虐」だと。  前三部作を撮り終え、身を引く予定だったマイケル・ベイが、敢えてこの新作でも監督を引き受けた理由は何なんだったのか。 勿論、単に自分が培ってきた人気シリーズを他人の手に任せたくないという思いもあったのだろうとは思うが、この映画の仕上がりを見たところでは、それ以外の明確な「意思」があるに違いないと思う。  もはや突っ込むことも馬鹿らしく思えるほどに、今作は「中国資本」による「広告」のオンパレードである。クライマックスを含めた後半は、完全に中国映画であり、中国のPRビデオである。  当然ながら、映画は“お金”がなければ作ることは出来ない。 そんな中で潤沢な資金力を誇る中国市場に、ハリウッドの映画産業が集中していくことは、もはや必然だろうと思える。 昔から映画の作品内で“スポンサー”の威光が示されることは決して珍しいことではない。  ただし、その“威光”が、今後更に度を越していくことを、稀代のブロックバスター映画監督であるマイケル・ベイは、この映画で示したかったのではないか。  嘲笑を携えながら、165分の広告映画を観終えた。 しかし、この映画が歴代最高額の興収をたたき出したという現実を知り、嘲笑すらも消え失せた。  明確に生じたこの「危機感」は、ある意味、映画史上において「貴重」なことなのかもしれない。
[CS・衛星(字幕)] 0点(2015-05-24 22:47:43)
353.  ザ・イースト
「ミイラ取りがミイラになる」というあまりに有名なことわざ一つで済まそうとすればそれまでなのだが、映画のストーリーテリング自体はオーソドックスだったと思う。 ただ対象となる素材が、過剰なテロまがいの行為を展開する正体不明の環境保護集団であるという点は、極めて時事的で興味を引いたポイントだった。  そういう時事的な要素を用いれているだけに、描き出される現代社会の病理性はリアルで、実際世界中が注視しなければならない問題だったと思う。 主人公は、元FBIの民間警備会社調査員の女性で、前述のことわざの通りに、謎の集団の在り方にシンパシーを感じ次第にのめり込んでいく様は、スリリングであった。 決して盛りすぎることなく抑えた緊張感を持続させた演出も高水準だったとは思う。  ただし、だ。結局、最終的に得られた映画の印象は「軽薄」という一言に落ち着いてしまった。  この映画における最大の欠落は、主人公のバックグランドがあまりに描かれていないことだと思う。 展開されるストーリー上では、主人公の感情はしっかりと描かれているし、演じているブリット・マーリングの演技も良かったと思う。(彼女は今作の脚本も手がけているらしく、とても才能豊かな人なのだろう。)  しかしながら、この主人公がなぜこの「仕事」に執着するのか、そもそもなぜにFBIに入り、退職し、得体のしれない民間の警備会社に在籍しているのか。 ここまでに至った主人公の人生模様がまるで見えてこないことが、全編を通して彼女の言動の理由付けを曖昧にしてしまっていて、結果として映画全体において感情移入できない要因となってしまっている。  その他の環境保護集団の面々の人物描写もどこか浅はかだった。それぞれが自らの人生を賭して環境破壊に対しての過激な警鐘活動に取り組んでいるわけだが、彼らの行動原理についても語られ方が浅く、そこにあるべき悲壮感が伝わりきらなかった。  そして、最後の“オチ”の見せ方があまりに粗末過ぎる。  「だいたい分かるでしょ?」と言いたいのだろうけれど、一介の調査員の一人に過ぎない彼女があの後どうやって巨悪を陥れていったのか、あまりに説明不足で腑に落ちない。  このところ益々“不気味”な存在感を高めているエレン・ペイジをもう少し有益に使うべきだったとも思う。あの段階でのフレームアウトは少々勿体無い。  非常に興味深い作品だっただけに、根本的な部分での欠落があまりに勿体無く、映画としての価値を大いに下げてしまっている。
[CS・衛星(字幕)] 5点(2015-05-24 01:39:36)(良:1票)
354.  300 <スリーハンドレッド> ~帝国の進撃~
“インパクト”のみで勝負し、娯楽映画として見事に勝利してみせた「300<スリーハンドレッド>」から早8年。 8年越しの続編は、物語の時間軸的にはほぼ同時進行の「番外編」という立ち位置だった。 スパルタ王レオニダスの死闘の裏では、また別の死闘が繰り広げられていた!という話。  前作自体が好き嫌い大別される作品だっただけに、もはやこの第二作目においては“好きな人以外立入禁止”にすべきだろう。 まず最初に断言させて貰いたいのは、「セックスより上手ね」と、最後の死闘の最中に敵役の最強最悪の女傑に言い放たせた、この「番外編」の在り方は正しい!ということだ。  前作でスパルタ王を演じたジェラルド・バトラーが、あまりに熱苦しく、あまりに豪傑だっただけに、今作の主人公テミストクレスを演じたサリヴァン・ステイプルトンなる俳優の存在感が希薄だったことは明らかだ。 彼が率いるアテナイ軍も、豪傑揃いの精鋭300人だったスパルタ軍と比較してしまうと、当然ながら脆弱に映ってしまい、映画に添えるべきインパクトに欠けていたと思う。  しかし、その希薄さや脆弱さは、ある意味必然的なことだ。続編であり番外編である今作が、物語の本筋である前作に対して“同様”のインパクトで勝てるワケがないし、勝つべきではない。  その代わりに今作は、また別のインパクトをちゃんと用意出来ていた。 それこそが、前述の「台詞」を放つペルシャ帝国海軍指揮官アルテミシアなる最恐の悪女であり、それを演じたエヴァ・グリーンに他ならない。 彼女一人で、主人公率いるアテナイ軍はおろかペルシャ王すらも凌駕する存在感を放っている。 最近数作では印象的な悪女ばかりを演じているエヴァ・グリーンだが、彼女が現役最恐の“悪女女優”であることは間違いない。  彼女と主人公の「一戦」が、今作の最大のハイライトであることは言うまでもないだろう(ニヤリ)。
[CS・衛星(字幕)] 7点(2015-05-17 22:56:52)
355.  バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)
“キャスティング”に込められた“巧み”な“悪意”。 このアカデミー賞受賞作品の成功の要因は、先ずそれに尽きると思う。 マイケル・キートンをはじめとする配役の妙が見事で、その配役に応えたキャスト陣がそれぞれ見事だったということだ。  かつてヒーロー映画の主演でドル箱スターとなり一世を風靡した俳優が、十数年の月日を経て、己の俳優としての存在性、そして父親としての存在性に疑問を持ち、満を持して挑んだ舞台作品の初演を前に苦悩する様を描いた物語。 プロットとしては、極めて“ありがち”である。 ただし、先に挙げた「配役」も含めて、「撮影」の手法、ストーリーの「展開」など、描き出し方がとてもユニークで、それ故にオリジナリティに溢れた作品に仕上がっているのだと思う。  まあ何と言っても、主人公の元スター俳優役にマイケル・キートンを選んだことは、この映画が成り立つための必須項目だったように思う。 二十数年前にティム・バートン版「バットマン」で“ブルース・ウェイン”を演じたこのベテラン俳優は、今作の主人公そのものだ。 彼がこの役を引き受け、ベストパフォーマンスをしてみせたからこそ、このコメディ映画は、モキュメンタリー(擬似ドキュメンタリー)の要素も併せ持つ特異な世界観を醸し出すことに成功しているのだと思う。  主人公のリーガン・トムソンは、俳優としての栄光を取り戻すために、畑違いの舞台に挑む。 それを演じるマイケル・キートン自身も、己の俳優人生をある意味自虐的に体現し、自身のキャリアと俳優としての意地をかけた「演技」をしてみせた。 その様には、一人のハリウッドスターの“生き様”がまざまざと表れていて、物語を越えて感動的であった。  主人公は妄想と現実の狭間で終始苦悩をし続ける。 それは即ち「過去」との折り合いをつけるための闘いとも言える。 どんなに「過去」が「現在」にとって邪魔な存在になろうとも、自分の人生である以上、それから完全に決別することなど出来ない。 「現在」と「過去」を等しく見つめ、それぞれに対してどう折り合いをつけるか。人生とはそういうものなのかもしれない。  【過去=バードマン】を病室のトイレに追いやって、主人公が掴んだ【現在=現実】は、果たして何だったのだろう。 如何様にもとらえられるこの映画の結末は、それを目の当たりにした観客それぞれに語りかけてくるようだった。 「飛ぶのか?」「飛ばないのか?」と。
[映画館(字幕)] 8点(2015-05-05 22:15:49)(良:2票)
356.  あなたを抱きしめる日まで
赦すことの苦悩。赦さないことの苦悩。赦されることの苦悩。赦されないことの苦悩。 人生は時に残酷で、一つの“赦し”にまつわるすべての人々が、どの決断をしたとしても、苦悩に苛まれることがしばしばある。 果たして、真の意味で正しい人間、真の意味で強い人間は、自分の人生を通していずれの“赦し”を導き出すのか。   この映画には、様々な“ミスリード”が含まれていて、巧い。 実話を元にした感動物語風にイントロダクションをしておいて、実は非常に辛辣で罪深いこの世界の闇が描きつけられる。 そして、重いテーマ性に対して身構えてみたならば、紡ぎだされる語り口は極めて軽妙でユーモラス。 御年80歳の大女優ジュディ・デンチのコメディエンヌぶりに、心が鷲掴みにされる。  原題は「Philomena」。ジュディ・デンチ演じる愛すべき主人公の名前である。 原題が指し示す通り、この映画は主人公“フィロミナ”の人間的な魅力に魅了されるべき作品だと思う。  暗く悲しい時代の中で、生き別れになった母と子。50年の年月を経て、ついに母は子を探す旅に出る。 実話とはいえ、もっと安易に感動物語に仕上げることも出来たろうし、悲しい時代が犯した罪を掘り進めて、もっと暗く重い社会派ドラマに仕上げることも出来ただろう。 カトリック教会の渦巻く闇だとか、レーガン政権下のエイズ患者への仕打ちなど、暗に示されている題材は多々ある。 しかし、この映画はそういうありきたりで安直なシフトを認めなかった。 主人公のキャラクターを魅力的に描き出し、コメディとして仕上げた巧さと勇気に賞賛を送りたい。  もう一人の主人公であるジャーナリストは、ふとしたきっかけで出会った貧しい老婦人のことを、“無知で心が弱い人たち”と決めてかかる。 だが、彼女と旅をしていく中で、ほんとうに含蓄が深く心が強い人間が誰であるかを知っていく。 それは、浅はかな固定概念を払拭する旅路でもあった。   主人公“フィロミナ”が辿り着いた「真実」は決して喜ばしいことではなかった。 それでも彼女は揺るがない。相手を赦し、すべてを受け入れる。 それは、何よりも最初に先ず自分自身の罪を認め、そして苦悩と共にそれを赦してきた彼女だからこそ導き出すことができた“答え”だったように思えた。
[CS・衛星(字幕)] 8点(2015-04-29 01:04:23)
357.  ワイルド・スピード/SKY MISSION
「別れなんてない」 そう言い残して一人走り去るドミニク。そんな彼を追ってきて、真っ白のスープラでいつものように横に並んだブライアンの姿は、果たして現実だったのだろうか、幻影だったのだろうか。 「さよならも言わずに行くのか?」と笑顔を見せるブライアンに対してのドミニクの表情には、喜びと悲しみが等しく入り交じっているように見えた。  シリーズ7作目。 当然ながら“一見さんお断り”の今作を、封切り早々に観に行く“ファン”としては、とてもじゃないが、ラストのシークエンスを涙なしでは観られなかった。  とはいえ、この映画は「ワイルド・スピード」である。映画の9割以上は、突っ込むことが馬鹿らしく思えるくらいに大味なストーリーテリングと、大仰なアクションシーンのひたすらな連続である。 ただし、その「大味」と「大仰」は、このシリーズが7作品を通じて培った娯楽性の“境地”であり、否定の余地は微塵もない。  一介のストリートレーサーだった主人公とその一味が、シリーズを追うごとにアクションヒーロー化し、ついには某スパイアクション映画を彷彿とさせるほどの極秘任務を担う。 フツーなら“あり得ない!”と一蹴されるべきプロットを、堂々とまかり通してしまう。それを成すものは、このアクション映画シリーズが導き出した奇跡的なエンターテイメント性に他ならないと思う。  この「7」は、あらゆる側面で「奇跡」そのものだ。  前作のラストで突如登場したジェイソン・ステイサムを最恐の悪役に配し、ヴィン・ディーゼル、そしてドウェイン・ジョンソンと、あまりに“肉厚”な肉弾戦を繰り広げる。 “アクションスター”というステイタスの価値が低迷して久しいが、それでも“現役”トップスターである三者の揃い踏みは、あまりに豪華だ。  また、ミシェル・ロドリゲス好きとしては、前作のジーナ・カラーノ戦に続き、またしてもプロ格闘家ロンダ・ラウジーとの“連戦”はたまらなかった。  そしてもちろん、最後に言及したいのは、ポール・ウォーカーだ。 俳優の死は、いかなる時も映画ファンにとって不幸以外の何ものでもない。 今作のクランクアップ前に急逝したもう一人の主演俳優の死は、あまりに大きな損失だった。 ただ、彼の死が、この映画に特別な意味と価値を与えたこともまた事実であろう。  ド派手なカーアクションの追求の果てに、今作ではついに自動車が“空を飛ぶ”。 「SKY MISSION」は後付の邦題ではあるが、今作の主題であるその要素は、天国へと旅立った主演俳優の姿に重なってくる。   映画は、総合芸術であり総合娯楽だ。 その「総合」という言葉には、そこに携わった人間の“人生”そのものも含まれるのだと思う。 一人のスター俳優の生き様と共に、今シリーズはこの先も愛され続けるだろう。 今宵は、ポール・ウォーカーの冥福を改めて祈りたい。 もちろん献杯は“コロナビール”で。
[映画館(字幕)] 9点(2015-04-25 23:45:00)(良:4票)
358.  花とアリス殺人事件
岩井俊二監督の“絵コンテ”をそのままアニメーションにしたような映画だった。 正直なところ、アニメーションとしては稚拙だし、二次元のキャラクターに情感が溢れているとはとてもじゃないが言い難い。 紡ぎだされる物語自体も、随分とチープで散文的と言わざるをえないだろう。 何の思い入れもない人が、この作品を単体で観たならば、酷く退屈だろうことは否めない。  でもね。“一部”の人は、どうしたってこの映画を無下に否定することなど出来やしないと思う。 アニメーションであれ何であれ、再び「花とアリス」の世界観をスクリーンで堪能することが出来る。 その事実だけで、高揚感と幸福感を感じずにはいられなかった。  10年の時を経て、岩井俊二監督のもと、蒼井優と鈴木杏をはじめとする演者が揃い、同じ息吹を届けてくれた。諸々のセルフオマージュも含めて、この映画監督のファンとしては頬を緩めずにはいられなかった。  一つの映画として、決して優れた作品ではない。僕自身、想定よりも随分と満足度は低かった。  でも、また“彼女たち”に会えた。それだけで、僕はうれしかった。   今作の鑑賞直前に劇場版を鑑賞し直したが、今作を観終わった後にまた観たくなった。 “Web版”と“劇場版”と“殺人事件”を同封したコンプリートBOX出ないかな。絶対買うけど。
[映画館(邦画)] 6点(2015-04-11 23:43:02)
359.  ジュピター
とても“ふざけた映画”だった。 でも、あの“姉弟監督”に、こうも“本気”でふざけられては、最終的に親指をグッと立てるしかなかった。  大バジェットのSF映画でありながら、偏屈な芸術家が気まぐれで生み出した作品を観ているような感覚。この“ふざけた”感じは、まるでテリー・ギリアムの映画のようだと思っていたら、ウォシャウスキー姉弟監督の思惑はまさにその通りで、リスペクトを込めてなんとギリアム監督本人が出演していた。  “IMAX3D版”を観るかどうか、ぎりぎりまで迷った。何とも得体のしれない映画自体の印象と、伝わってこない前評判に尻込みしてしまい、結局通常版を観てしまった。結果、とても後悔している。  序盤は、ベッタベタでありきたりな展開に対して全く乗りきれなかった。 冒頭の大迫力の攻防シーンも、これでもかという仰々しさがクドすぎる程に展開され、無駄にハイクオリティーな映像世界に対して思わず苦笑してしまった。  ただ、その“仰々しさ”や“クドさ”が、段々と癖になってくる。 本来なら排他すべきマイナス要素も含めて、姉弟監督がこの映画で狙った“娯楽性”だということが徐々に見えてくる。 まさにお決まりの大団円を迎える頃には、嫌悪感や不快感など微塵もなく、むしろ鑑賞後にはふつふつと“愛着”が沸き上がってきていた。  キャスティングもハマっている。 チャニング・テイタムとミラ・クニスという主演カップルの組み合わせは絶妙だ。 どちらも“セクシー”さの印象が強いスター俳優だけに、観客は、この映画がどこまで「本気」の映画なのか、最後まで難しい見極めを強いられる。 これも監督の狙い通りだろうと思うし、実は演者としてとても“賢い”両俳優も、その狙いをちゃんと理解した上で、ヒーロー像、ヒロイン像を演じている。  キャストにおいては、やはりエディ・レッドメインの名前を挙げないわけにはいかない。 今年アカデミー主演男優賞を獲得したばかりのこの若い俳優の実力は本物だ。 当然、この映画の撮影時はアカデミー賞受賞のずっと前だろうが、彼ならではの悪役像はとても新鮮で、既に名優としての存在感を放ち始めている。   おそらくウォシャウスキー姉弟は、“序章”として今作を製作しているハズ。 本国ではコケてしまったようだが、それにめげずに続編を作っていってほしいと思う。 今度はちゃんと“IMAX3D版”で観るからさ。
[映画館(字幕)] 7点(2015-03-28 23:54:53)(笑:1票) (良:1票)
360.  ダイバージェント
企画自体の“意図”を理解せぬまま観ていたので、SF映画としての何とも言えぬ程度の低さと、軽く浅はかな人物描写の“正体”を見極められぬまま、この完成度の低い映画を観終えた。  悲壮感が漂うべきディストピアを描きながら、全編通して滲み出てくる軽薄さの正体。 それは、この映画が“ティーン向け”の企画であるということだった。  ストーリーの大部分を半ば意味不明に占める“学園モノ感”、ありがちな“スポ根感”に、薄っぺらい“友情”と“裏切り”と“恋模様”。 どうしてこのディストピア映画には、こんなにも無駄な要素が散りばめられているのだろうと、終始感じ続けた違和感の正体こそが、“ティーン向け”という一言に集約される。 「ああ、成る程」と、変な具合に合点がいってしまった。  終末戦争を経て、人間を5つの精神的なカテゴリーに分別し管理する社会という発想は、説得力には欠けるけれど、この手のSF映画の設定として悪くはないと思えた。 この設定を礎にして、人間の持つ本質や社会の哲学性が導き出されることを期待した。 が、当然ながら、そんな気の利いたストーリー展開が用意されているわけもなく、ただただ浅はかで、冗長なストーリーに終始していた。  誰が見ても明らかだろうが、物語の根幹であるはずの“5つの派閥”という設定が全く生かされていない。 「無欲」出身の主人公が、「勇敢」に鞍替えして、「博学」の横暴に立ち向かうという展開なわけだが、残りの「平和」と「高潔」は何をしてるんだというくらいに描写が皆無である。 というよりも、映画のほぼ8割方は、「勇敢」に属した主人公らの“学園青春ドラマ”を延々と見せられる。 そもそも、「勇敢」の阿呆ぶりは最初からヒドくて、どうして主人公が彼らの生き方に憧れを抱くのかあまりに理解不能であった。  どうやら「ハンガー・ゲーム」のヒットを受けて、二番煎じを狙った企画のようだが、主人公の女の子は、残念ながらジェニファー・ローレンスにはなれないだろう。 そして、どうしてケイト・ウィンスレットはこんな映画に出ちゃったのか……。  最後に、あの派閥選択の儀式は時間がかかりすぎるだろうから、やり方を変えた方がいいと思う。 
[CS・衛星(字幕)] 2点(2015-03-22 21:52:06)(良:1票)
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