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鉄腕麗人さんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 2594
性別 男性
ホームページ https://tkl21.com
年齢 43歳
メールアドレス tkl1121@gj8.so-net.ne.jp
自己紹介 「自分が好きな映画が、良い映画」だと思います。
映画の評価はあくまで主観的なもので、それ以上でもそれ以下でもないと思います。

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41.  グッドフェローズ
暴力と虚栄を振りかざして、傍若無人な人生を謳歌するギャング稼業の面々は、揃いも揃って狂人揃いであり、愚かしく、人間的に同調できる要素は皆無だ。 ただ、その虚無的な人間模様が、まさに映画でしか味わうことが許されない情感と感触を生み出していることも事実。 マーティン・スコセッシ監督によるあまりにも有名なギャング映画は、その知名度に相応しく紛れもない傑作だった。  3年前の年明けにNetflix映画「アイリッシュマン」で、スコセッシ監督の巨匠ぶりと、彼がそのフィルモグラフィーにおいて培ってきたギャング映画の文脈を心ゆくまで堪能した。 そして未見だったこの30年以上前のギャング映画の金字塔を初鑑賞して、すでにその礎が凝縮されていることを思い知った。 「アイリッシュマン」にも出演していたロバート・デ・ニーロ、ジョー・ペシは、本作撮影時は40代後半で俳優としても脂が乗り切っていて、映画世界の中で文字通りギラついている。彼らの発する狂気性が、このギャング映画を唯一無二のものにしていることは明らかだった。  そしてその両名優に負けずとも劣らないギラつきを発する主人公を演じるレイ・リオッタの存在感も抜群だった。 本作以降の幾つもの作品で、レイ・リオッタという怪優は絶妙な気味悪さと共に数々の悪役やサイコパスを演じ続けていたが、本作の出演によりその映画俳優としての地位を確立したのであろうことを痛感した。昨年(2022年)の訃報を改めて残念に思った。  「グッドフェローズ(原題「Goodfellas」)」は、スラングで「信頼のおける仲間たち」という意味。 ギャング映画において、溜まり場で「こいつは良いやつだ」「俺達の仲間だ」と紹介し合うシーンはよく描かれる。ただし、その信頼関係は、あまりにも軽薄で表面的なものであり、彼らの人間関係の脆さと危うさを多分に孕んでいる。 本作においても、主人公のモノローグで「Goodfellas」の意味が説明された後、急速に彼らが築いた人間関係は虚無的に崩壊していく。  そこには、ギャングたちの愚かさが如実に表されると同時に、彼らが暴力と虚栄によって必死に塞ぎ込み抗ってきた貧しさや人種的差別、生まれ持ったヒエラルキーが顕になっていた。 前述の通り、ギャングたちの生き様に同調も同情もできないけれど、結局、自分が心の底から忌み嫌った体制に“フェラ”をすることでしか、生き延びる術を見い出せなかった主人公の顛末は、あまりに悲しく、あまりにも虚しい。
[インターネット(字幕)] 9点(2023-01-03 00:38:21)
42.  ナイブズ・アウト:グラスオニオン 《ネタバレ》 
ジェームズ・ボンドから解放されたダニエル・クレイグが名探偵ブノア・ブランに扮するNetflixオリジナルミステリーシリーズ第二弾。 二作目にして、名探偵役がすっかり板についているダニエル・クレイグ。この無骨な俳優が、このウィットに富んだ名探偵役にこれ程ハマるとは思わなかった。 まず言いたいのは、引き続きシリーズ作を展開していってほしいし、クレイグには長くこのキャラクターを演じ続けてほしいと思う。  前作は、大富豪の豪邸を舞台にした血族同士の諍いが、ミステリの王道よろしく描き出されていたが、続編となる本作でも、孤島でのバカンスに集められた旧友たちの確執と復讐が描き出され、これもまたミステリの王道的展開だった。  最新のミステリ映画として、斬新な設定やアイデアばかりを散りばめるのではなく、アガサ・クリスティやコナン・ドイルの推理小説の世界観を引用して、現代劇として描き直すという趣向がこのシリーズの特徴であり、ユニークな点だと思う。 そこにブノア・ブランという新たな名探偵キャラーを創造し、現代的な視点や価値観を盛り込みながら物語を紡いでいくことで、フレッシュな娯楽性を生んでいる。 「古典的」と言ってしまえば確かにそうかもしれないが、それ故のミステリの芳醇さがあり、また一方では単なる古典のリメイクでは味わえない新旧混在の味わい深さがあると思う。  ストーリー上のキーワードでもある“グラス・オニオン”。「天才」という金づるに群がる人間たちの空虚な関係性が、このタイトルと、劇中登場するガラス張りの玉ねぎ型ペントハウスに象徴されている。 人間の虚しさや、愚かさの本質を描き出すに当たって、時代性なんてものは関係なく、古いミステリのフォーマットでこそ際立つものなのかもしれない。  大豪邸、孤島、とくれば次はいよいよ“特急列車”かな。期待大。
[インターネット(字幕)] 8点(2022-12-25 13:52:14)
43.  アダムス・ファミリー(1991)
まさかこの映画を観ていなかったとはな。 Netflixのオリジナルシリーズ「ウェンズデー」が面白そうだったので、元ネタである本作を復習しようと思ったら、なんと続編の「アダムス・ファミリー2」だけ観ていて、本作は未鑑賞だったという事実が発覚。 ちょうどクリスマス時期にも相応しいと思い、まさかの初鑑賞。 キャラクター造形も、テーマ曲も、その世界観も、初鑑賞でありながらももはや「懐かしい」映画世界だった。  もっとチープで子供向けのファミリームービーの印象だったが、冒頭からしっかりと作り込まれた美術やカメラワークが秀逸で、想像よりもずっとレベルの高いクオリティを誇る娯楽映画の世界観に引き込まれた。  本作が娯楽映画として世界的人気を得た最大の要因は、何と言ってもファミリーを演じる個性的な俳優陣によるキャラクターにマッチした表現力だろう。 主演のラウル・ジュリアを筆頭に、個性派俳優たちが嬉々として奇妙なキャラクターを演じきっている。  個人的に最も印象的だったのは、やはり“フェスター伯父さん”に扮するクリストファー・ロイド。「バック・トゥ・ザ・フューチャー」シリーズで“ドク”を演じ終えた直後の出演作だけあって、その表情をはじめとするアクトパフォーマンスのそこかしこに“ドク”が垣間見えて、楽しい。  そして何と言っても、クリスティーナ・リッチ演じる“ウェンズデー”の特異なキュートさがたまらない。弟を処刑ごっこの実験台にし続けたり、首がちょん切れた人形を大切にしていたり、学芸会の舞台では大量の血しぶきをぶちまけながら熱演を繰り広げたりと、その言動のすべてが常軌を逸しつつも、ひたすらにブキミでカワイイ。  本作のストーリーそのものは、ベタなコント的なものであり、あってないようなものだけれど、そんなマイナス要因を補って余りある奇怪で愉快な映画世界は、やはり魅力的だ。 30年の時を経て蘇る「ウェンズデー」には、クリスティーナ・リッチも出演するらしい。益々楽しみだ。
[インターネット(字幕)] 7点(2022-12-16 23:54:41)
44.  THE BATMAN-ザ・バットマン-
「バットマン」の映画化において最も重要で、取り扱いが難しい要素は、“リアリティライン”の引き方だと思う。 架空の超犯罪都市の大富豪が、夜な夜な真っ黒なコウモリのコスチュームに身を包み、街の悪党たちを殲滅する。元来アメコミであることを鑑みても、圧倒的にマンガ的であり、どう言い繕っても“馬鹿っぽい”設定である。 それでも、ほとんど絶え間なく映画化されてきたのは、この“馬鹿っぽい”世界観が、多様な創造性を孕んでいるからだろうと思える。 マンガ的な物語世界を実写映像化するにあたって、リアリティラインをどのように引くか。 あくまでも寓話的なダークアクションに振り切るのか、現実社会の鬱積や病理性を盛り込んだ哲学的なストーリー展開を深堀りするのか、はたまた筋肉隆々の“冷凍男”が主人公を押しのけて登場するようなエンタメに突っ切るのか、その「線引き」によって映画作品の印象は大いに変わるし、その分幅広い層に熱狂し得る。  そういった観点からは、新たなリブート作品として製作された本作も、明確な意図によって他のシリーズとは異なるリアリティラインが引かれているとは思う。 ただ、個人的には本作のその線引きは、ややアンバランスだったと感じた。  現実路線で、どこか映画「セブン」を彷彿とさせる猟奇サスペンス要素との融合は面白い試みだった。過去シリーズにおいては異世界の象徴として存在感を出すヴィランたちの風貌やキャラクター性も、極めて現実的な造形に振り切って、リアリティラインをより現実に近い位置に寄せていると思う。 主人公バットマンに“探偵”の役割を与え、他のアメコミヒーロー映画とは一線を画した作風に仕上がっていることは間違いない。  が、しかし、その現実路線のテイストがバランス良く成立しているとはどうしても思えなかった。 その最たる理由は明らかで、舞台である犯罪都市“ゴッサム・シティ”のあり方自体がファンタジーすぎるからだと思う。 あれだけ常軌を逸したレベルで治安が悪く、景観や公共サービスが崩壊しているとしか思えない劣悪な環境下において、今更政治家や警官の汚職がどうとか、薬物が濫用されていたり、マフィアが裏で糸を引いているとか言われても、「そりゃそうだろうよ」と正直鼻白んでしまう。 故に、そんな中で、バットマンや、真っ当な警察や政治家たちが、「正義」や「人生」をかけて苦闘するしている事自体が“非現実的”に感じてしまい、どうにも乗り切れなかった。  主演のロバート・パティンソンのバットマンぶりは悪くはなかったと思うが、徐々に解明されていく事実に対して総じて思慮が浅く、バットマンである以前に人間的に未熟な主人公の姿はやはり魅力的ではなく、必然的に映画的な魅力の欠如に繋がっている。 用意されていたストーリーテリングについても、稚拙で、ただ鈍重であったことを否めない。 リブート作品として、特別なバッググラウンド描写や、新機軸の展開があるわけでもなく、この内容でほぼ3時間の上映時間はさすがに冗長すぎた。  一方で、ビジュアル的なクオリティは過去最高レベルで素晴らしかったと思う。 “重さ”までを表現するバットマンのコスチュームや、臨場感の高い迫力あるカーチェイスシーンなど、印象強いカットやシーンは全編通して散りばめられている。 もっと作り込まれたストーリーさえ備えていれば、もっと素晴らしい「バットマン」に仕上がるであろうことは明白なので、次作に期待したい。
[インターネット(字幕)] 6点(2022-12-12 00:51:40)(良:1票)
45.  アムステルダム
戯曲のように自由闊達で雄弁な語り口。そして、人物たちの強い眼差し。 想像以上に突飛で、時にアバンギャルドな映画世界中で、唖然とするシーンも多かったが、それ故に明確な意思の強さを感じる作品だった。 その彼らの意思の強さは、今この混迷極まる世界、そして時代の最中において相応しく、大きな存在感を放っていたと思えた。  第一次世界大戦の戦場で知り合い親友となった男女が、1930年代のニューヨークで再会し、陰謀渦巻く殺人事件に巻き込まれる。 冒頭から見るからに常軌を逸した“変人”医師として登場する主人公“バート”を演じるクリスチャン・ベールが、特異な存在感を放ち、観る者に対して、本作が良い意味で“マトモな映画ではない”ということを半ば強制的に呑み込ませてくる。 そして矢継ぎ早に展開される解剖シーンと殺害シーンで、観客をドン引きさせると共に、本作が描く時代の混迷へと引きずり込む。 その観客の感情や心の準備なんてお構いなしに、本作が描き出すべきテーマと、それを織りなす時代を表現する冒頭の展開は、極めて強引で暴力的だけれども、同時にシニカルで痛快でもあり、本作が孕む本質的なエンターテイメント性を伝えていたと思う。  タイトル「アムステルダム」は、主人公ら3人が意気投合し、束の間の安寧を謳歌した街として映し出される。 戦禍の悲痛を経て、喜びと多幸感に溢れる青春の様を描いたその短いシークエンスは美しく、3人がその後の人生においてもその日々を心の拠り所として生きてきたことがありありと伝わってくる。 その中で、マーゴット・ロビー演じる“ヴァレリー”は、まさしく太陽のような輝きと強さを併せ持ち、圧倒的な魅力を放っていたと思う。その後時を経て再登場し、一転して月のような儚い輝きと陰影を表現していたことも印象的だった。(マーゴット・ロビーは、今やハリウッドにおいてその出演作にもっともハズレが無い女優の一人だと思う)  次々に登場するオールスターキャストもみな印象的で素晴らしい。 ジョン・デヴィッド・ワシントン、ゾーイ・サルダナ、クリス・ロック、マイク・マイヤーズ、マイケル・シャノン、アニヤ・テイラー=ジョイ、ラミ・マレック、そしてロバート・デ・ニーロ。殆ど事前情報を入れずに鑑賞に至ったこともあり、個性的な豪華キャストが登場するたびに驚き、高揚した。  特異なストーリーテリングとテンションが全面的に繰り広げられる作品なので、必然的に“お手本通り”に“万人受け”するタイプの映画ではないだろう。正直、間延びしていたり、展開的な違和感を感じる場面も少なくはない。 ただその映画的な歪さや、ある意味での居心地の悪さも含めて、本作が試みたブラックユーモアであり、現実の世界にも通ずるシニカルな批評性の表れだったのだと思う。  主人公は、文字通り満身創痍の身体と己の人生を受け入れて、引き続きこのクソみたいな世界で生き続けることを決心する。 その先に本当の愛はあったのだろうか。3人の親友たちはいつか再会して再び歌い合うことができたのだろうか。 アムステルダムの街は、また美しく、彼らを迎えてくれたのだろうか。 この映画の終幕の後に展開する世界の行く末と、彼らの人生模様を想像して、少し胸がキュッとなった。
[映画館(字幕)] 8点(2022-10-29 23:52:36)
46.  スパイダーヘッド
イントロダクションと映画世界への導入はとても良かった。 孤島に建設されている近代美術館のような刑務所施設の出で立ち、無機質な室内空間、そしてクリス・ヘムズワースの渇いた笑顔。 敢えて、意識的にポップに仕立てられたオープニングクレジットは、逆説的にこの映画世界の不穏さを雄弁に物語っており、興味をそそられた。  「とても面白そうな映画」 それは、Netflixオリジナル映画の一つの特徴となりつつある。  もちろん、映画の予告編やあらすじを見せて、「面白そう!」と感じさせることは極めて大切なことだ。 特に、映画に限らず、これだけありとあらゆる娯楽コンテンツが溢れ返っている現代社会においては、何を置いても、「再生ボタンをクリックさせる」というユーザーアクションの創出以上に重要なことなどないのかもしれない。 “面白そう”なオリジナル作品が常にラインナップされる以上、映画ファンの一人として、“そこ”から離れることはなかなか難しい。  が、結果的には、面白そうな映画で、実際面白い部分もあったけれど、ガツンと心に残り続ける作品に仕上がっていることが少ない。というのが、Netflixオリジナル映画の実態だ。  本作も、前述の通り、非常に興味をそそる映画世界を構築していたのだけれど、最終的な印象としては、極めて薄っぺらく感じた。 結局は、ストーリーが“ありきたり”の範疇を出ておらず、話が進むにつれて尻つぼみになっていった。 この手のストーリー展開にリアリティなんて求めても仕方ないことだし、近未来を舞台にしたディストピア設定なのだから、もっと振り切った展開を見せるべきだったろうと思う。  “ソー”からの「脳筋」イメージ脱却を図るクリス・ヘムズワースは、大いに屈折した製薬会社の人間を怪演していたと思うし、今年は「トップガン マーヴェリック」の記憶がまだまだ鮮烈なマイルズ・テラーも印象的な雰囲気を醸し出していたとは思う。 ただ、それぞれのキャラクター性も今ひとつ踏み込みきれぬままストーリーが収束していくので、何とも中途半端な人間描写に留まってしまっている。  それこそ、本作の監督は「トップガン マーヴェリック」のジョセフ・コシンスキーなわけで。 同じ監督、同じキャストであっても、何か要素が異なれば、映画的なエネルギーはここまで差が出てしまうということ。 詰まるところ、それが「トップガン」でトム・クルーズがエゴイスティックに拘り抜いたことであり、Netflixに限らず配信作品に何か物足りなさを感じてしまう要因なのではないかと思える。
[インターネット(字幕)] 5点(2022-09-17 22:15:05)
47.  ムーンフォール 《ネタバレ》 
やっぱり僕は、ローランド・エメリッヒ監督の「馬鹿」がつくほどの超大作が大好物らしい。 中学生の頃に観た「インデペンデンス・デイ」以来のその趣向を改めて思い知った。 Amazon Prime Videoで公開されたこの超大作、ネット上の評価は概ね芳しくないようだけれど、僕は断然「大好き」だった。  タイトルそのままに「月が落ちてくる!」というイントロダクションに嘘偽りは全く無い。 あらゆる科学的考証なんて完全無視するかのごとく、突如として月が地球に迫ってくる。 まさしく読んで字の如しの「天変地異」、映画史上最大クラスの“災害映画”であることは間違いないだろう。  ただし、時代は2022年、今更大仰なディザスタームービーを謳われても、特に日本での劇場集客が難しかったろうことは理解できる。 それこそ同監督の超大作が立て続けに公開された90年代後半ならいざしらず、もはや“地球が崩壊する有様”なんて、特に映画ファンでなくとも見飽きているというもの。 そういう意味では、本作のプロジェクト自体が、安直だったことは否定できないし、日本国内では配信公開となったことは賢明だったとは思う。  が、しかしだ。 前述の通り1996年の「インデペンデンス・デイ(ID4)」に熱狂し、世評の揶揄や嘲笑を感じながらも、「GODZILLA」「デイ・アフター・トゥモロー」「2012」と、一種ジャンル化した超大作ディザスタームービーを楽しんできた世代の映画ファンとして、2022年に観る本作は、ある意味感慨深く、やはり楽しかった。  流石にただの「災害映画」一辺倒のストーリーテリングだとマンネリは避けられないかと思っていたけれど、そこに月にまつわる“都市伝説”と“オカルト的学説”を強引にねじ込み、トンデモSF映画に「昇華」させている。 もちろん、このトンデモ展開を是と捉えるか、否と捉えるかは人それぞれだろうし、きっと多くの人たちは否定するのだろうけれど、SF映画ファンとしてこの強引な展開は非常に好ましかった。  キャスト的にも、長らくファンのハル・ベリーは女優として良い年のとり方をしていると思えるし、パトリック・ウィルソンを主演に配することによる良い意味での“B級映画感”も個人的には好印象。 少ない出演シーンながらドナルド・サザーランド、マイケル・ペーニャと脇役のキャストも意外に豪華だった。(マイケル・ペーニャは最後生きていてほしかったが……)  クライマックスの展開などは、言うまでもなく「ID4」やその他作品の焼き直しだし、既視感は否定できなかったが、それでもド定番な“負け犬たちのワンスアゲイン”展開には胸熱にならざるを得なかった。  もし日本で劇場公開されていたならば“大コケ”は不可避だったのかもしれないけれど、それでも僕はこの馬鹿映画を大スクリーンで観たかった。
[インターネット(字幕)] 8点(2022-09-04 09:22:47)(良:3票)
48.  モービウス 《ネタバレ》 
夏時期になると自宅の周りにコウモリが多くて困っている。 以前などは、いつの間にか室内に入り込んでいて、恐怖におののいた。 本作で、主人公モービウスがコウモリの化け物に変態してしまって、天井の片隅に張り付いている様は、その時のおぞましさを思い出すとともに、禍々しくて良かったと思う。  作品全体を総じて、ハイセンスなビジュアルは流麗で独創的だったと思えた。 怪物化したモービウスが煙のような形態で、縦横無尽に飛び回り襲いかかる描写も、美しさと禍々しさを併せ持った印象的なビジュアル表現だった。  主演のジャレッド・レトは、“変態前後”で見事な肉体改造を見せ、新たなダークヒーローを熱演している。 主人公の親友でありヴィランとなる“マイロ”を演じたマット・スミスも、独特な風貌と佇まいで好演していたと思う。ヒロイン役のアドリア・アルホナも良かった。  映像表現も、キャストのパフォーマンスも優れていたのだが、いかんせん話運びが稚拙で上手くない。 ストーリー展開が破綻しているということはないし、主人公やその親友の悲痛な人生や、ヒロインとの関係性など、エンターテイメント映画として高揚感や感動を生む要素は確実に孕んでいたと思える。 適切なストーリーテリングで深めるポイントを間違わなければ、もっとストレートに胸に響く味わい深い作品になっていたのではないかと思う。  MCU作品「スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム」でのマルチバース展開を経て、ソニー・ピクチャーズに舞台を移した新たなユニバース展開を広げていくためのポストクレジットシーンも、少々物足りない。 マイケル・キートン演じるトゥームスの登場自体は良いが、それだけではやはり弱いし、本作における主人公の帰着に対して違和感は拭えなかったなと。  残念ながら満足感の高い作品では無いが、続編と計画されているユニバースの展開には期待したい。 本作のモービウスのケムリ移動に、スパイダーマンやヴェノムのアクションが入り混じった光景は、想像するだけでもアメージングだ。 何よりも、ジャレッド・レトには、アメコミ映画におけるせっかくの熱演・好演が報われなかった過去(無きものにされた元祖“スーサイド”)があるので、今回は何とか報われてほしい。
[インターネット(字幕)] 5点(2022-08-28 00:05:40)
49.  グレイマン 《ネタバレ》 
「“超人的”はやめろ バカっぽい」  “キャプテン・アメリカ”役を卒業して、ある意味「自由」になったクリス・エヴァンスをサイコパスな悪役に配し、この台詞を放たせたことが、本作のハイライトかもしれない。   「キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー」から「アベンジャーズ/エンドゲーム」までの各作品の指揮をとり、MCUの“インフィニティ・サーガ”を見事に締めくくってみせたルッソ兄弟による本作におけるアクション描写の手腕は流石だった。 アクション映画としての“見せ方”と“魅せ方”は、作品全編において「工夫」が張り巡らされていて、楽しく、引き込まれる。  前述のクリス・エヴァンス含め、キャスティングも良かった。 主演のライアン・ゴズリングは鍛え上げられた見事な“肉体美”と、この俳優持ち前の“憂い”で、アクション映画の主人公として申し分ない魅力を放っていた。 「007/ノー・タイム・トゥ・ダイ」の記憶もまだ新しいアナ・デ・アルマスは、「007」での少ない出演シーンで世界中の映画ファンを虜にした魅力を存分に見せてくれた。 また個人的には1996年の「スリング・ブレイド」以来のビリー・ボブ・ソーントンという俳優のファンなので、久しぶりの出演作鑑賞が嬉しかった。  と、アクションもキャストも最高だったのだけれど、いかんせんストーリー展開がありふれておりチープ過ぎた。 スパイ・アクションの部類である以上、もう少しストーリーテリングにおけるケレン味や小気味よさがほしかったところ。 キャストのパフォーマンスはそれぞれ安定していたはずだけれど、演じるキャラクターの言動があまりにも予定調和的過ぎるので、結果的に「凡庸」に見えてしまったことは否めない。  続編を狙っているためか、諸々の設定が未回収な箇所も多く、本作単体の結末にカタルシスが得られなかったことも大きなマイナス要素だった。
[インターネット(字幕)] 6点(2022-08-15 22:25:11)
50.  ジュラシック・ワールド/新たなる支配者
1993年の「ジュラシック・パーク」から約30年、時間を越えて、時代を越えて、一つの映画シリーズを“体感”するというプロセスは、映画ファンとしての一つの醍醐味だと思う。 かなり破茶滅茶な作品に仕上がっていることは否定しないが、30年間このシリーズを観続けてきた一恐竜映画ファンとして、“胸アツ”だったことも否定できない。  30年前、10歳かそこらだった私は、父親と劇場のスクリーンに蘇った恐竜の闊歩を目の当たりにした。 映画制作におけるCG技術もまだまだ黎明期だった時代、スティーヴン・スピルバーグによってもたらされたその“恐竜世界”は、まさにアメージングであり、エキサイティングな体験だった。 個人的にも、映画を映画館で観るという娯楽体験の本質を、心に植え付けてくれた作品だったと思える。  そんな映画史的にも、個人的にもエポックメイキングな作品の「完結編」と謳われる本作に対して、熱くならないわけがないのだ。 前述の通り、破茶滅茶な映画であり、ストーリーテリング的に破綻している箇所もあるだろう。 ただし、そういう破茶滅茶をまかり通すのが、SF映画であり、娯楽映画であると、私は思う。  SF映画に対して、「科学的ではない」などというクレームをつけるのは、そもそもナンセンスだ。なぜなら、「SF」とは科学的に説明できないことを空想で物語るものであり、そもそも「科学」とは未知なるものを想像し、探求する学問だからだ。 暴論を恐れずに言うならば、「科学的ではないことこそが、科学なのだ」と私は信じている。  “ジュラシック・パーク”の創始者ジョン・ハモンドが、空想し、想像し、巨万の富を駆使して“実現”したのは、まさにそういう世界だった。だからこそ、人々は倫理観を越えて熱狂し、30年間に渡って繰り返し“恐竜世界”を求めたのだと思う。   と、ついつい“空想”と“現実”が入り混じった感情を抱いてしまうが、とにかく私はそれくらいこの映画シリーズが大好きだった。 そして、ついには恐竜たちが世界中に蔓延り、地球上の生命の「種」を混ぜっ返すようなSF世界まで到達してみたこの最新作もとい最終作を私は断然支持したい。  ああ、楽しかった。 映画鑑賞においてその多幸感に勝るものなどない。
[映画館(字幕)] 8点(2022-08-05 23:15:24)(良:1票)
51.  オールド 《ネタバレ》 
詰まるところ、人間にとっての最大の脅威は「時間」であるということ。 「時間」というものの非情さと残酷。それに直接的に脅かされた時、またはそれを独善的に操れると知った時、人間は狂気と慈愛の狭間で混乱し、混沌を生む。  立ち返ってみたならば極めて普遍的なテーマを主軸に据えた話ではあった。 だが、そこからよくもまあこんな狂った“設定”を思いつき、ストーリーを練り上げ、緊張と恐怖を創出できるものだ。あまりにも奇妙な事象を、極めてシンプルな映画世界の中できっちりと表現している。 「さすがはM・ナイト・シャマランだ」と称賛するに相応しい作品だったと思う。  私自身、常に時間の経過には焦り、脅えている。 特に忙しない人生を送っているわけでもなく、呑気な部類の生き方だとは思うが、それでも無情に過ぎ去る時間を無駄にしたくはないと常に思っているし、ふと覗いた鏡の中の自分が徐々に確実に老いていることを感じるたびに、焦燥感は吹き出る。  自分の子供が生まれ、彼らの足早な成長を目の当たりにするようになると、時間の経過とそれに伴う自分自身の“変化”は、事程左様にくっきりと輪郭を帯びるようになってきた。本作において子供のキャラクターを複数設定している意図は、まさにそういう部分にあったに違いない。  この映画の中で、登場人物たちは非人道的な時間による暴力によって、狂気のるつぼに放り込まれる。 ただでさえ非情な時間が、轟々と音をたてるように流れていき、彼らは焦ったり、恐怖に怯える間もなく、異常な現実を突きつけられる。  この映画のストーリーテリングが、とても恐ろしく、同時にとても面白いのは、登場するキャラクターたちが、異常事態による恐怖や狂気によって破滅していくというよりも、あくまでも「時間」の経過に伴う自然の摂理や、人間としてのある種の成長によって、一生を終えていくというところだ。 ある者は老衰で、ある者は持病の進行によって、ある者は老いていく自分の姿に耐えられず、そしてある者は人間的成長に伴って生まれた盲目的な使命感によって……。  つまりそれらは、すべての人間が通常の世界で生きていく中で誰しも迎え得る結末であるということ。 この世界で生きるすべての人間は、「時間」というサバイバル中に身を置き、生死をかけて彷徨い続けているということを、この奇怪な映画世界は雄弁に物語っていたのだと思う。  どんなに異常で暴力的な時間経過の只中であっても、適切な“死の順番”を迎えられたことに対して、主人公家族の両親たちは“束の間の幸福”を得られたのだろう。 私自身、人の親として、また人の子として、せめてそのことは守りたいと切に願う。
[インターネット(字幕)] 8点(2022-07-10 00:19:50)
52.  ソー:ラブ&サンダー 《ネタバレ》 
思わず声を出して笑ってしまったシーンはあったし、楽しくない映画だったとは言わないけれど、期待していた映画的価値の創出できていないなというのが、正直な印象。 タイカ・ワイティティ監督らしいエキセントリックな表現やキャラクターたちの言動はユニークだけれど、ストーリーの根幹に存在すべきテーマがひどく散漫で、愛すべき“おふざけ”がただの“緩み”のまま終始してしまっており、中身の乏しい映画に仕上がってしまっている。  これがタイカ・ワイティティ監督の初めてのビッグタイトルということであれば、また面白い監督が出てきたなと好意的に見れたかもしれないが、既に前作「マイティ・ソー/バトルロイヤル」で一躍頭角を表し、「ジョジョ・ラビット」で映画監督としての地位を固めた実績を踏まえると、本作の仕上がりについては“お粗末”と言わざるを得ない。  MCUがフェーズ4に入り、その世界観が際限なく広がってしまったことが、本作の立ち位置を見失わせてしまった最たる要因だと思う。 フェーズ3までは、サノスとの決戦を終着点として、あくまでも“地球”ベースで各映画作品が連なっており、その中では、“神々の騒動”を描いた「マイティ・ソー」シリーズはある種「異質」であり、その毛色の違いが魅力だったと思える。 だが、フェーズ4に突入し、「エターナルズ」「シャン・チー」等の神話的世界観が乱立するようになり、更には「スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム」や「ドクター・ストレンジ/マルチバース・オブ・マッドネス」で“多元宇宙”の領域までMCU全体の世界観が無際限に広がってしまった今となっては、我らが“ソー”を軸にした神々の世界の独創性もすっかり薄れてしまっている。 そんな中で、改めて“神同士”の諍いや、“神殺し”との対決を繰り広げられても、今更感が拭えず、新たな高揚感を見出すことができなかった。  ナタリー・ポートマンのシリーズ復帰、クリスチャン・ベールの存在感は、本作において大きな要素であり、それぞれ一流俳優としての魅力を遺憾なく見せてくれていたと思う。 クリスチャン・ベール演じるヴィラン“ゴア”は溢れ出る禍々しさと悲痛を見事に体現していたと思うし、ナタリー・ポートマンは、それこそベール顔負けの肉体改造で強く美しい新マイティ・ソーと非情な運命を受け入れるジェーン・フォスターを演じきり、ヒーローとヒロインを同時に演じ分けていた。 しかし、両者とも、中身の無いストーリー展開の中で上手く噛み合っていたとは言えず、とても勿体ない印象を受けた。(御大ラッセル・クロウもほぼギャグ要員で残念)  これほど影響が出るとは思っていなかったけれど、観終わった今となっては、やはり「ロキの不在」が、本シリーズにおいてはあまりにも大きなマイナス要素となることを証明してしまっている。 期待していた“ガーディアンズ”との絡みも冒頭のみで取って付けたような感じだったし、他の並行するMCU作品との絡みも皆無だったことも、本作を浮かせてしまっている要因だろう。 単独作としてはシリーズ4作目であり、MCUの中でも最多となっている本シリーズだが、更に続編に挑むのであれば、「バトルロイヤル」の時のようなテコ入れが必須だろうと思う。   劇中劇で再登場する“ビッグスター”たちには大いに笑わせてもらった。 あの舞台役者たちは、アスガルド崩壊やサノス襲撃からも生き残っていたんだな、と思うと妙に感慨深いものがある。
[映画館(字幕)] 5点(2022-07-09 22:06:18)
53.  ナイル殺人事件(2020) 《ネタバレ》 
梅雨の日曜日。特に天気が悪いわけではなかったが、前夜の深酒がたたり午後になっても二日酔いが辛かったので、部屋に引きこもって映画を観ることにした。 随分前から動画配信サービスのマイリストに入りっぱなしになっていたケネス・ブラナー版の「オリエント急行殺人事件」を鑑賞し、立て続けにその続編である本作「ナイル殺人事件」を鑑賞。 異国情緒溢れる豪華絢爛な映画世界をトータル4時間分堪能して、取り敢えず満腹感は大きい。  「オリエント急行殺人事件」と同様に、本作の原作「ナイルに死す」も過去幾度も映像化された作品。ピーター・ユスティノフがポワロを演じた1978年の映画作品も鑑賞済みだった。ストーリーテリングの細かい部分の記憶が薄れていたので、ミステリが展開していく流れについては新鮮に楽しめた。 がしかし、最終的に残った感想としては、1978年版を鑑賞した時と同じ不満を覚えた。  それは、「さすがに3人は殺されすぎじゃないか?名探偵さんよ」ということ。  無論のことながら、そもそも殺人事件が起きなければ「名探偵」というキャラクターは成立しないわけで、それはシャーロック・ホームズから江戸川コナンに至るまで古今東西の名探偵キャラの宿命であり苦悩であろう。  ただこのナイル川における連続殺人については、ポワロの失態と言わざるを得ない。 “オリエンタル急行”の場合は、殺人が計画されていた車両にあくまでも「偶然」乗り合わせた状態だったろうが、今回の場合は全く異なる。 身の危険を感じていた被害者本人から依頼され、「危険人物」とされる人間の存在も確認していながら、まんまと依頼人は殺され、第2、第3と惨劇は続き、最終的にはそれ以上の死人を生む悲劇へ終着してしまう。  しかも、大富豪御用達の豪華客船とはいえ、それほど巨大とは言えない船内での事件なので、ご自慢の“灰色の脳細胞”をフル回転させれば、惨劇を最小限に食い止める方法はいくらでもあっただろうと思ってしまう。  更に今回のリメイクでは、原作からの改変により、第3の被害者がポアロ自身の友人に変更されている。 目の前で殺人が行われた上に、大切な友人まで失う始末。嗚呼、なんと不憫な名探偵だろうか。  ケネス・ブラナー監督自身が、エルキュール・ポアロを演じるという大車輪の活躍を見せるこの新シリーズは、過去の作品よりもより一層ポアロという人間そのものの内面を抉り出そうとしている。 また人種問題をより浮き彫りにさせたり、ジェンダー問題を想起させるキャラ設定の追加をしたりと、決して小さくない改変に挑んでいる。 現代においてリメイクするにあたって、その意欲的な試み自体は評価したいところだけれど、それが作品世界の中で効果的に作用しているとは言い難い。 改変箇所が単なる「違和感」と感じてしまう部分は少なくない。   当初は計画していたエジプトロケが叶わず、シーンの大半をCG合成に頼らざるを得なかったことなど、作品全体から垣間見える「歪さ」は、製作における苦労は多分に物語っている。 そんな中でも、この原作に相応しい絢爛豪華な「雰囲気」だけはきっちりと保って、娯楽性を保っていることは、ケネス・ブラナーの堅実な尽力によるものだろう。  次作のプロジェクトもまだ残っているようなので、“髭”を蓄え直してどうか頑張ってほしい。
[インターネット(字幕)] 5点(2022-06-26 23:22:43)
54.  オリエント急行殺人事件(2017)
とても真っ当に「豪華絢爛」な映画だったと思う。 豪勢に作り込まれた列車内の美術や調度品、雪原を突き進む急行列車の雄大な風景、そして昨今ではなかなか見られない“オールスターキャスト”。 それらの娯楽要素がこの映画企画の中核であることは間違いなく、求められるクオリティでしっかりと仕上げてみせている。監督&主演を担ったケネス・ブラナーは、映画人として、相変わらず堅実な仕事を全うしている。  アガサ・クリスティの原作「オリエント急行の殺人」は、過去何度も映像化されたミステリーの古典であり、その知名度の高さは言わずもがな。必然的に、ミステリーの要である「真相」も既に世界中に流布されている。 普通ならば、オチが知れ渡っているミステリー映画を何度も観たいとは思わない。 それでもこの推理小説が何度も映像化されるのは、描き出される人間の群像の中心に、唯一無二のドラマ性が存在するからだろう。  僕自身が「オリエント急行の殺人」の映像化作品を観たのは、本作で4作目。 1974年のシドニー・ルメット監督作版、2010年のデヴィッド・スーシェ主演のイギリスのテレビドラマ版、そして三谷幸喜脚本による日本を舞台にしたスペシャルドラマ版(2015年)に続く、4度目の「オリエント急行殺人事件」となる。  本作も含めて、どの作品ともとても楽しんで鑑賞することができたことからも、僕自身この物語自体が大好きなのだろうと思う。(恥ずかしながら原作は未読なので、今更だけども小説も読んでみようと思う)  そして、入れ代わり立ち代わり描き出される群像劇こそが肝の物語の特性であることが、オールスター映画として仕立てやすく、そもそもセレブリティを対象にした急行列車が舞台であることも相まって、「豪華」な映画世界を構築しやすいことも、この作品が映像作品として幾度も製作される要因だろう。  本作は、幾つかのキャラクター設定や人種設定の変更はあったものの、基本的には過去の映像化作品から大きく逸脱するものではなかった。 悪い言い方をすれば、斬新さというものは皆無と言ってよく、今の時代にリメイクされることの意義を問われることも致し方無いとは思う。  ただ敢えてオーソドックスにリメイクされることが、映画史の文脈において価値があることもあり、本作はまさにそういう類の作品だとも思う。 是非はともかくとして、監督も務める映画人が新たなエルキュール・ポアロを自ら体現し、ハリウッドきっての個性派のスター俳優が憎しみの象徴となる悪役を演じ、新旧の名女優たちが顔を揃えて世界一有名なミステリーを彩る構図は、ただそれだけでも確固たるエンターテイメントだったと思える。 過去の映像化作品と比較して、No.1ポワロは誰だとか、あの役はあの俳優の演技のほうが良かったなどと言い合うこともまた映画を楽しむことの一つだと思うのだ。  オーソドックスではあるものの、一つ一つのシーンやカットはとても丁寧に作り込まれていて、ケネス・ブラナーらしい様式美に溢れていた。 窓ガラスの縁でダブる乗客の表情や、「最後の晩餐」を思わせる横並びのカットで審判を受ける乗客たちの構図など、意欲的な画作りは交換が持てたし、本作が持つ味わい深さだと思う。  僕自身、改めて過去作を見返して、それぞれの「オリエント急行の殺人」を堪能してみようと思う。
[インターネット(字幕)] 7点(2022-06-26 23:20:07)
55.  トップガン マーヴェリック
トム・クルーズがトム・クルーズであることを貫き通したことが、また一つアメージングなエンターテイメントの傑作を生み出したのだと思う。 そう断言してしまっていいくらい、本作にはトム・クルーズという“映画人”の生き様が凝縮されている。 そしてそれは、世界中のすべての映画ファンにとって、幸福で、最高な「映画体験」をもたらしていると思える。   1986年のオリジナルから36年、多くの映画ファンが続編を待ち望んでいたと言うが、実のところ個人的な期待感は極めて小さかった。 なぜなら36年前のあの“戦闘機映画”が、それほど良い映画だとは思っていなかったからだ。 実際に鑑賞したのは、僕自身が20代前半の頃だったと思う。画面に映る主演俳優の若々しさを興味深く追いつつも、作品全体の仕上がりに“浅さ”を感じてしまい、あまり感動を覚えなかった。 アクション映画としても、その時点で公開年が20年近く前の映画に対して興奮し得る要素はあまりなく、割とありふれた青春映画、もしくはスポーツ映画を観ている感覚だったと思う。  したがって、この続編の制作の遅れやコロナ禍による度重なる公開延期の報を聞いても、特に残念に思うことも無かった。他の多くの大作映画と同様に、劇場公開に至らず「配信」になっていたとしても、「ああそうなんだ」と思うに留まっただろう。 そんなふうな認識だった「映画ファン失格」の僕は、まずトム・クルーズに対して謝罪して、感謝の言葉を尽くさなければならない。   本作に限らず、どの映画製作においても、その規模が大きくなればなれるほど「妥協」という言葉は常につき纏う。どんなに高い志や理想があったとしても、完成して、公開されなければ映画というものの存在意義はそもそも生まれない。 その結果、「駄作」になってしまった映画は星の数ほどもある。 しかし本作は、トム・クルーズが、主演俳優として、そして映画プロデューサーとして、「妥協」を考え得る最小限に留め、映画人としてのエゴイズムを貫き通したからこそ、問答無用の「大傑作」として存在意義を得ているのだと思う。  本作の映画としてのあり方やストーリーテリングそのものは、極めてシンプルであり、王道的であり、ベタである。ただだからこそ、その豊潤なエンターテイメント力に圧倒される。 本物の戦闘機の轟音、俳優たちが本当に乗り込んでいるからこそ表現できる重力、そして本当に歳を重ねた主演俳優の円熟味と変わらぬスター性。 正真正銘の「リアル」が、この娯楽映画の真髄であろう。   36年ぶりに紡がれた“マーヴェリック”の物語は、彼自身が若者だった1986年の物語に新たな価値を与え、高めている。そこには映画世界の内外における「継承」が成されていて、そのことがまた多層なドラマティックを生み出している。  それはやはり、世界ナンバーワンの映画スター(映画バカ)がもたらした偉業であり、映画史における“ミラクル”だと思うのだ。
[映画館(字幕)] 10点(2022-06-12 17:06:13)(良:3票)
56.  マトリックス レザレクションズ 《ネタバレ》 
20年越しの「復活(Resurrections)」という名の「強制再起動」。 昨今90年代前後の大ヒット映画のリメイクや続編製作が連発される映画界において、本作もプロジェクトの発端そのものはその例に漏れるものではないだろう。 ただ、本作には、そういった現在の映画界に蔓延するネタ不足と、マンネリ化を超越して、「マトリックス」という映画世界そのものとそれがもたらした文化を俯瞰して再構築するという“メタ視点”と“反則技”が満ち溢れていた。 そこには、単なる“アイデア不足”にはとどまらない意欲と、本作単体としてのアイデンティティがあったと思う。  1999年と同じく、主人公ネオ(=アンダーソン)を演じるキアヌ・リーブスが、かつて「マトリックス」という大ヒットゲームを生み出した伝説的クリエイターとして登場し、ゲーム会社に囲われるようにして、惰性の日々を貪っているというメタ的設定がまず面白い。 マトリックストリロジーの顛末を経て、「救世主」としての“役割”を全うし、機械支配からの解放を促したはずの彼が、再び囚われの身になっているという状況が、何を表しているのか。 映画史の文脈を超えて、文化的、社会的な革命の象徴となった「マトリックス」という映画世界が生み出した価値は、何を生み出し、その後時代の変遷と共にどのような位置づけに変わっていってしまったのか。  そこには様々な要素と解釈が入り混じり、我々映画ファンを再び“鏡の世界”へと誘っていた。 週末の深夜、眠気と戦いながら動画配信サービスで一度観ただけでは、正直理解しきれない部分は多いし、正確な解釈をしきれていないことは我ながら明らかだ。 やっぱり出来栄えに訝しがることなく公開時に映画館で観るべきだった、と後悔は否定できない。  ただ一つ強く感じたことは、本作はオリジナルに引き続き監督を務めるラナ・ウォシャウスキー監督の極めてパーソナルな感情や心情、人生模様が如実に反映された作品として仕上がっていたということ。 マトリックストリロジーよって「自由」を掴み取ることの真意を文字通り革命的な映画世界の中で追求し、自分自身、映画人として、そして人間として、「自由」を追い続ける彼女の生き様とその強い思いが、この映画には満ち溢れている。 そう言うなれば本作は、「マトリックス」を生み出した一人であるウォシャウスキー監督だからこそ許されるセルフパロディであり、壮大な「個人映画」だったのではないかと思えるのだ。  1999年の「マトリックス」第一作のラストシーンを模した主人公たちの飛翔には、あの時と同じ高揚感を覚えた。 この後の続編がまた生み出されるのかは知らないけれど、時代が変わり、価値観が変わっても、「自由」を追求するための可能性は無限に広がり続ける。
[インターネット(字幕)] 8点(2022-05-16 00:33:06)
57.  ドクター・ストレンジ/マルチバース・オブ・マッドネス 《ネタバレ》 
ある程度「覚悟」はしていたつもりだったけれど、想像を越えた“狂気のるつぼ”を目の当たりにして、正直面食らってしまった。 タイトルが指し示していた通り、“マルチバース”の多層世界が折り重なると同時に、あらゆる表現で具現化された狂気性そのものが入り混じり、特異な映画世界を構築していた。  一瞬、これが“MCU”の最新作であることを見失ってしまうくらいに、この映画における狂気と怪奇、そして恐怖は振り切っていたと思える。 そこには、これまた予想以上に、監督を務めたサム・ライミの“風味”が充満していた。 先日、サム・ライミ版「スパイダーマン2」を再鑑賞した時も感じたが、やはり芸術的なまでにおぞましい恐怖描写こそがこの名匠の真骨頂であり、どんなシリーズ映画であろうともその“サム・ライ味”が抑えられることはないのだろう。  シーン的に白眉だったのは、やはりダークサイドに完堕ちしてしまったワンダことスカーレット・ウィッチの恐怖シーン。 満を持して特別出演した“イルミナティ”の面々を一蹴(惨殺)した挙げ句、逃亡するストレンジたちを執拗に追走してくるシーンは、まさにホラー映画そのものだった。  その他にも、古楽器から奏でられる音楽を具現化したストレンジ同士のバトルシーンや、ゾンビストレンジによる“死霊のはらわた”全開の怨霊大作戦、全編に渡ってゴシックホラー感満載のヴィンテージライクなカメラワークなど、やっぱりこの映画は、MCU映画である以上に、「ドクター・ストレンジ」の続編である以上に、“サム・ライミの映画”だった。  一方、個人的には、「アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン」以来のエリザベス・オルセン演じるワンダのファンなので、スカーレット・ウィッチとして完全に暗黒世界に陥ってしまった彼女の姿は悲しすぎて見てられなかった部分はある。 そして、こうなってしまった経緯を描いているらしいドラマシリーズの「ワンダヴィジョン」はやっぱり観ておくべきだったなと後悔は否定できない。  ただ、この映画の混沌は、そんな個人的趣向や、ストーリー上の不理解なんてどうでも良くなるくらいに常軌を逸している。 本作によって強引なまでにこじ開けられた世界観の拡大によって、今後のMCU作品が益々“マルチバース化”そして“マッドネス化”していくことは明らかだろう。  お決まりのエンドクレジットでは、まさかのあのトップ女優のMCU初参戦確定! リアルに多層構造化し巨大化していくディズニーのビジネス戦略にまんまと取り込まれることも覚悟して、改めて“Disny+”の契約も検討せねば……。
[映画館(字幕)] 7点(2022-05-07 18:54:44)
58.  バットマン・フォーエヴァー
個人的に初めて観た「バットマン」の映画は、本作の直接的な続編である「バットマン&ロビン Mr.フリーズの逆襲」だった。1997年に映画館で鑑賞したあの映画は、イロイロな意味でどうかしている作品で、当時高校一年生だった僕に、偏ったバットマンのイメージを植え付けてしまった。 その結果、前作であった本作はおろか、ティム・バートン版の2作品も観ることなく、2005年のクリストファー・ノーラン監督作「バットマン ビギンズ」が公開されるまでバットマンに触れることは無かった。 そして更に時が経ち、ティム・バートン版に触れつつ、ノーラン監督の三部作を終え、ベン・アフレックがバットマンとなった「ジャスティス・リーグ」を経て、今年また新たなバットマン映画が公開される矢先に、ようやくこの「フォーエバー」の鑑賞に至った。“Mr.フリーズ”から実に25年、無駄に感慨深い。  僕の中では“残された”バットマン映画だったが、率直な感想としては、今まで鑑賞に至らなかったことを少し後悔するくらいに、魅力的な娯楽映画だったと思う。 クリストファー・ノーランが描いたバットマンや、サム・ライミが描いたスパイダーマン以降のアメコミ映画ファンとしては、良い意味でも悪い意味でも極めて“マンガ的”な本作のテイストは、一周回ってフレッシュで、ヒーロー映画の原点を観たような感覚さえ覚える。  監督こそ異なるが、一応はティム・バートン版からの流れを汲むシリーズ3作目という位置づけもあり、余計な説明描写は差っ引いて、冒頭からいきなりメインのヴィランとの攻防を描く展開が、アクセル全開という感じで小気味いい。 各アクションシーンを彩るケレン味たっぷりの美術や装飾も90年代のヒーロー映画の味わいを象徴しており、シンプルに観ていて楽しい。  そしてなんと言っても、キャスト陣がみな良かったと思う。 先ずは、トミー・リー・ジョーンズ&ジム・キャリーが演じるヴィランズのイカれっぷりがサイアクでサイコー。それぞれのキャラクターがヴィランに落ちた経緯やバックグラウンドなんてそこそこにして、名優二人が嬉々として狂人を演じるさまが素晴らしかった。 ヒロインを演じるのは、こちらも大女優ニコール・キッドマン。当時既にスター俳優だったとは思うが、その風貌はまだまだ瑞々しく、麗しいヒロイン像を体現していたと思う。  そして、個人的に最も不安視していたのは、バットマン役に抜擢されたヴァル・キルマーだったけれど、想像以上にバットマン=ブルース・ウェインというキャラクターにマッチしていたと思う。 本作では、ヒーローとヒロインのキスシーンが繰り返し映し出されるけれど、それも納得のセクシーな口元が印象的だった。何故次作の「Mr.フリーズの逆襲」ではバットマン役が交代になったのか、少々疑問が残る。  と、想定外の満足感と共に鑑賞。この流れで「Mr.フリーズの逆襲」も25年ぶりに観てみようかな。
[インターネット(字幕)] 7点(2022-03-13 01:07:03)
59.  キングスマン: ファースト・エージェント
元々、僕はこの人気シリーズとは“相性”が良くないらしく、過去2作とも割と期待感高く劇場鑑賞してきたけれど、いずれも悪ノリの面白さよりも、露悪的な表現によるストーリーの破綻の方に嫌悪感を感じてしまい、全くハマることが出来なかった。 マシュー・ヴォーン監督の出世作、「キック・アス」や「X-MEN:ファースト・ジェネレーション」は傑作だと思っているだけに、監督の個人趣味に突っ走った本シリーズは、余程自分の趣味に合わないのだろうと思う。  そんな経緯なので、「キングスマン」の“エピソード0”として製作されたこの最新作に対しても、特に期待感は無く、度重なる公開延期に対してもほぼスルー状態だった。 某配信サービスの最新作にリリースされたので取り合えず鑑賞してみたが、率直な感想としては、可もなく不可もなくといったところか。  過去2作に比べると、悪趣味な暴走ぶりは鳴りを潜めており、“見やすい”娯楽映画だとは思う。ただし、その代わりに特筆すべきエンターテイメント性が無いことも事実だろう。  特に物足りなかったのは、前作までの(個人的には)唯一にして最大のハイライトだったギミックの娯楽性がほぼ皆無だったことだ。 時代設定が第一次世界大戦前夜であるから、ハイテク機能を隠し持ったギミック満載のスパイ・ガジェットの登場は無理だったろうけれど、前二作に登場したガジェットの「原型」となった“秘密道具”くらいは駆使してほしかった。  ストーリーテリングや、登場人物の言動においても、説得力に欠ける点が多く、どうにも映画世界に入り込むことができなかった。 レイフ・ファインズ演じる主人公は、無論“THE紳士”なたたずまいでソレっぽいけれど、実際のところ彼の行動は行き当たりばったりなことが多く、決して理知的でもなければ、紳士的でもなかった。 挙句、何よりも大切な家族や友人たちをことごとく失くしてしまうわけだから、やはりヒーローとしての魅力や説得力に欠けてしまっていることは否めない。  やはりマシュー・ヴォーン監督においては、むしろ制約の多いハリウッド大作の中で、しがらみに雁字搦めになりながら、それでもギリギリの範囲で“悪趣味”を爆発させるくらいの方が、彼のセンスが際立つのではないか。 彼の出世作がいずれもアメコミ作品であることは言わずもがなだし、同じくアクの強い映画監督であるジェームズ・ガン監督が、MCUやDCのアメコミヒーロー映画で傑作を連発していることからも、進むべき道は明らかだと思うけれど。
[インターネット(字幕)] 5点(2022-02-27 00:40:36)
60.  Mr.ノーバディ
無慈悲に去っていくゴミ収集車、何の変哲もない通勤と職場、愛想のない思春期の息子、毎夜距離の空いた夫婦の寝室、家族の冷たい視線と小言、延々と繰り返される鬱積の日々……。 積もりに積もった欲求不満と、持って生まれた“或る狂気”がついに抑えきれなくなり、猫ちゃんのブレスレットが奪われたことを“きっかけ”に、地味な親父はブチ切れる!  破天荒で痛快。 「ジョン・ウィック」、「96時間」、「イコライザー」の系譜に位置する“舐めてたパンピーが実は殺人マシーンもの”の新たな傑作と言って相違ない。 もはやジャンル映画化されているキャラクターの基本設定はそのままに、主人公ハッチ・マンセルの人間性が独特で良い。  地味で大人しく、妻や息子からはやや蔑視され、毎日路線バスに揺られ、Excel入力を日がな繰り返す会計士の男が、突如秘めた暴力性を呼び醒ます様は、荒唐無稽で狂気的だけれど、同時に多大な娯楽性とカタルシスを孕んでいた。  自宅に押し入って去っていった強盗に対して、意気揚々と報復に行ったはいいものの、予想外の展開で“不発”に終わる主人公。悶々としたまま帰りのバスに乗り込んだところに、街のゴロツキどもが乗り込んでくる様子を見るやいなや思わずニヤニヤを抑えきれない主人公の様相からは、長年抑え込んできたのであろう彼の真の狂気性が溢れ出ていた。  そう、この男、間違いなく狂っている。 他の同系譜の映画のように、愛する家族を守るためにひた隠しにしていたその凶暴性を不本意に解放したのではなく、日頃の鬱積が堪らなくなって、意識的に“暴発”させたと言ったほうが正しい。それは、家族との安穏な生活を自ら放棄したと言っても過言ではなく、明らかに“やりすぎ”であろう。 だがしかし、その“暴発”の様こそが、多くの鑑賞者、特に彼と同じように日々鬱積を抱える我々“親父”層には堪らないカタルシス解放の起因となったのだと思える。  このアクション映画が描き出した娯楽の本質は、まさしく世界中の“親父たち”が抱える「欲求」の実現化。 唯一の得意料理を家族に振る舞いたいし、贅沢な海外旅行を計画したいし、高級クラシックカーを乗り回したい。そして、娘には好かれたいし、息子には尊敬されたいし、妻とはいつまでも愛し合っていたいのだ。  無論、普通の親父には、そのためにロシアンマフィアを壊滅するなんてことはしないし、できないけれど、小さくても自分自身が孕む「力」を解放することは、できるかもしれない。 この映画のカタルシスの正体はそういうことだった。   主人公の父親役で登場するのは我らがクリストファー・ロイド。施設暮らしの老いさらばえた爺さんと思いきや、主人公以上の狂気性を爆発させて見せてくれる。 最高、続編も期待大。
[インターネット(字幕)] 8点(2022-02-23 00:02:37)
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