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鉄腕麗人さんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 2594
性別 男性
ホームページ https://tkl21.com
年齢 43歳
メールアドレス tkl1121@gj8.so-net.ne.jp
自己紹介 「自分が好きな映画が、良い映画」だと思います。
映画の評価はあくまで主観的なもので、それ以上でもそれ以下でもないと思います。

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【製作年 : 2010年代 抽出】 >> 製作年レビュー統計
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1.  アルキメデスの大戦
結論から言うと、とても面白い映画だった。 太平洋戦争開戦前の旧日本海軍における兵器開発をめぐる政治的攻防が、事実と虚構を織り交ぜながら娯楽性豊かに描き出される。 若き天才数学者が、軍人同士の喧々諤々の中に半ば無理矢理に引き込まれ、運命を狂わされていく。 いや、狂わされていくというのはいささか語弊があるかもしれない。主人公の数学者は、戦艦の建造費算出という任務にのめり込む連れ、次第に自らの数字に対する偏執的な思考性と美学をより一層に開眼させていく。そこには、天才数学者の或る種の「狂気」が確実に存在していた。  一方、旧日本海軍側の軍人たちにおいても、多様な「狂気」が無論蔓延っている。 旧時代的な威信と誇りを大義名分とし、戦争という破滅へと突き進んでいくかの時代の軍部は、その在り方そのものが狂気の極みであったことは、もはや言うまでもない。 強大で美しい戦艦の新造というまやかしの国威によって、兵や国民を無謀な戦争へと突き動かそうとする戦艦推進派の面々も狂気的だし、それに対立して、航空母艦の拡充によって航空戦に備えようとする劇中の山本五十六も軍人の狂気を孕んでいた。  数学者の狂気と、軍人の狂気が、ぶつかりそして入り交じる。  史実として太平洋戦争史が存在する以上、本作の主題である戦艦大和の建造とその末路は、揺るがない“結果”の筈だが、それでも先を読ませず、ミスリードや新解釈も含めながら展開するストーリーテリングが極めて興味深く娯楽性に富んでいた。 避けられない運命に対して、天才数学者のキャラクター創造による完全なフィクションに逃げることなく、彼自身の狂気性と軍人たちの狂気性の葛藤で物語を紡いでみせたことが、本作最大の成功要因だろう。  主人公を演じた菅田将暉は、時代にそぐわない“違和感”が天才数学者のキャラクター性に合致しておりベストキャスティングだったと思う。 新たなキャラクター造形で山本五十六を体現した舘ひろしや、海軍の上層部の面々を演じる橋爪功、國村隼、田中泯らの存在感は流石だった。特に主人公側と対立する平山造船中将を演じた田中泯は、圧倒的な説得力で各シーンを制圧し、本作の根幹たるテーマ性を見事に語りきっていた。 若手では、主人公のバディ役を演じた柄本佑がコメディリリーフとして良い存在感を放っていたし、ヒロインの浜辺美波は問答無用に美しかった(そりゃ体のありとあらゆる部位を計りたくなる)。  そして、山崎貴監督のVFXによる冒頭の巨大戦艦大和の撃沈シーンが、このストーリーテリングの推進力をより強固なものにしている。 プロローグシーンとしてはあまりにも大迫力で映し出されるあの「戦艦大和撃沈」があるからこそ、本作が織りなす人物たちの狂気とこの国の顛末、そして、「なぜそれでも大和は建造されたのか」というこの映画の真意がくっきりと際立ってくる。   数多の狂気によって、かつてこの国は戦争に突き進み、そして崩壊した。そこには、おびただしい数の犠牲と死屍累々が積み重なっている。 ただ、だからと言って、誰か一人の狂気を一方的に断罪することはできないだろう。なぜなら、その狂気は必ずしも軍部の人間たちや政治家、そして一部の天才たちだけが持っていたものではないからだ。 日本という国全体が、あらゆる現実から目をそらし、増長し、そして狂っていったのだ。  今一度そのことを思い返さなければ、必ず歴史は繰り返されてしまう。 平和ボケしてしまった日本人が、失われかけたその「記憶」を鮮明に思い返すために、山崎貴監督によるVFXが今求められているのかもしれない。 誰得のCG映画やファンタジー映画で茶を濁さずに、意義ある「映像化」に精を出してほしい。 
[インターネット(邦画)] 8点(2024-03-10 00:07:07)
2.  アラジン(2019)
若干舐めていたところもあったが、思ったよりも真っ当でシンプルに面白いエンターテイメントだった。
[インターネット(吹替)] 7点(2024-03-02 23:39:53)
3.  愛がなんだ
たぶん、この映画を観たほとんどの人たちは、登場人物たち(特に主人公)に対して、痛々しさと、ある種の嫌悪感を覚えるのだろうと思う。 恋の沼に溺れ(どっぷりと沈み込んでいる)、自分を好いている人に都合よく甘え、相手を悪者にしたくないと物分りいい風に恋を諦める“彼ら”の様は、正直目も当てられない。 でもね、僕たちのほどんどは、その彼らの無様な姿から目を離すことができない。そして、嫌悪感を示しつつも、否定もしきれない。 それは、誰しもその無様さと自分自身の経験とを重ね合わさざるを得ないからだ。  誰だって、「正論」とは程遠い恋に溺れたことがあるだろうし、「不誠実」なセックスで誰かを傷つけてしまったこともあるかもしれない。 なぜそうしてしまうのか? それは、劇中でも吐露される通り、本当は誰も自分自身に対して「自信」なんて持てず、弱さや情けなさを隠しつつ、寂しさに覆い尽くされてしまわないように必死に生きているからだ。  主人公のテルコは、恋に溺れ沈み込む自分の愚かさも、相手の男の情けなさも、友人たちの弱さもズルさも、みんな分かっている。 それがもはや「恋」でもなければ、「愛」でもないことも。 それでも、彼女は、“沈没”を止めない。止められない。 友人に現実を突きつけられても、無垢な少女時代の自分自身に疑問を呈されても、「は?何それ」とすべてをシャットアウトする。  彼女は無意識下で知っているのだ。 それがどんなに愚かで精神的に不衛生な選択であろうとも、沈んで沈んで沈み込んで、“底”に足をつけなければ、浮き上がることができないことを。   この映画が描き出していることは、必ずしも色恋を主体にした恋愛模様ではなく、もっと泥臭くて滑稽な人間模様だった。 脳天をガツンと叩かれた感じ。この感覚は、2年前に鑑賞した「勝手にふるえてろ」を彷彿とさせる。 打ちひしがれた主人公が唐突に歌いだして心情を吐露するシーンなど類似点も多かったと思う。  そして、「勝手にふるえてろ」鑑賞時に松岡茉優を発見したことと同様に、また一人大好きになるべき女優を発見した。 主人公テルコを演じた岸井ゆきの。この女優がまた素晴らしかった。 不安定なキャラクターを演じきったその表現力もさることながら、個人的にツボだったのは彼女の風貌だ。 とても美人にも見えるがよく見るとそうでもなかったり、とびきり可愛らしくも見える時もあればまったくそうじゃない時もある。一つの映画の中でビジュアルがくるくると入れ替わるようだった。 例えるならば、“のん”のようなキュートでコミカルな繊細さ、“田畑智子”のような儚げな芯の強さ、そしてBiSHの“セントチヒロ・チッチ”のような秘めた熱さをかけて混ぜ合わせたようなマーブル柄。それが様々な表情を見せているようなそんな感覚を覚えた。 要するに女優としてどストライクだったということ。   「会社辞めたら象の飼育員になるわ」 と、動物園の象を見ながら、馬鹿な昔の男が馬鹿なことを言っていた。 それを聞いて泣いた私は、もっと馬鹿な女だったな。 と、彼女は、彼(象)に餌をやりながら懐かしむ。
[インターネット(邦画)] 10点(2021-05-03 00:23:09)(良:1票)
4.  アップグレード 《ネタバレ》 
得体の知れない「悪意」によって、愛する妻と自身の体の自由を失った不遇な男が、“機械”を体に埋め込み、文字通りの“殺人マシーン”と化して復讐に挑む。 翌日への憂鬱を抱えた休日の夜に観るには相応しい、B級SFの娯楽性を存分に堪能できる映画だった。日曜洋画劇場と淀川長治氏が健在な時代であれば、きっと何度も放送されたであろう。  サイボーク化の悲哀、AIの人格化と暴走、隠された陰謀……、この映画の娯楽を彩るテーマは、過去の幾つもの作品でもはや使い古されたものかもしれないが、描き方、映し出し方がとても丁寧でフレッシュなので、終始飽くことがなかった。 「機械」という悪魔に見初められてしまった男の過酷で壮絶な運命が、「寄生獣」や「ヴェノム」を彷彿とさせるある種の“バディ感”と共に展開していくストーリーが、とてもユニークだったとも思う。  決して、全てが目新しい映画ではないけれど、オリジナル作品として、監督と脚本を務めたリー・ワネルという監督の手腕と創造性は中々のものだ。先日観た現代版「透明人間」でも監督・脚本を務めたこの映画人には今後も期待したいと思う。  映画は、この手のダークSFに相応しい辛辣なエンディングを迎える。 それがただ後味の悪い悲劇に見えるのではなく、現代の社会に対する警鐘として妖しき光の中に浮かび上がってくることが、この映画が“質の高いB級SF映画”であることの証明だろう。  この世界に喜びを見いだせず、苦しみに耐えかねる人類は、そのうち皆、仮想現実に押し込められてしまうのではないか。 そう考えると、この映画が「マトリックス」の前日譚のようにも見えてくる。
[インターネット(字幕)] 8点(2021-02-23 23:29:16)
5.  アイリッシュマン
一言、凄い。 「映画」という“表現”と“歴史”が内包する「過去」と「現在」と「未来」を濃縮したような凄い映画だった。 この映画の“凄さ”は幾層に折り重なっていて、とてもじゃないが一度の鑑賞のみで語り尽くすのは困難に思う。  マーティン・スコセッシ監督が、自身のフィルモグラフィーにおける盟友(+名優)たちを集めて、ある種“懐古的”に製作されたギャング映画かと思っていた。 無論、その想像通りに、老いたデ・ニーロがスコセッシ作品で再びギャング役を演じるだけだったとしても、映画ファンとしての興奮は揺るがず、きっと良作になっていたに違いない。 だがしかし、この映画作品が孕むテーマとクオリティは、そんな安直な想像を容易に飛び越えて、遥かに高尚で、圧倒的に面白い映画の境地を見せてくる。  “マーティン・スコセッシの新作で老いたロバート・デ・ニーロがギャング役を演じている” そのこと自体に間違いは無い。が、そこに映し出されたものは、決して単なる懐古主義などでは留まるわけもない“新しい映画表現”そのものだった。  CG技術によって俳優の実年齢を大幅に変えて若返らせたり、老け込ませたりする“映像処理”の手法自体はもはや珍しくもなんともないことだけれど、今作のそれは、“映像処理”などという表面的な範疇を遥かに超えて、監督の演出と、俳優の演技に密接にリンクする「表現」として昇華されている。 そこで感じられたものは、ビジュアル的に違和感が有るとか無いとかのレベルではない。 稀代の名優たちが、スコセッシ監督が言うところの「CGによるメイク」を施されることにより、それぞれのキャラクターの人生を圧倒的な演技力で表現しきっていることに他ならない。  きっと、この映画を観た若い俳優たちは、驚きと共に、“恐れ”と“喜び”で、震え上がったに違いない。 なぜなら、避けられぬ老いと共に、一線から引いていたに見えた偉大な名優たちが、映画の新しい表現方法により再び新たな可能性を得たことを目の当たりにしてしまったのだから。 それは俳優としての機会損失の危機であると同時に、映画史の過去と未来が現在進行系で入り交じる、より多様性を孕んだ新しいキャスティング時代の幕開けに他ならないと思える。  そしてこの新しい映画表現が「実現」したフィールドが、「Netflix」という新時代のメディアであることも、当然ながら看過できない。 今の時代、通常の映画興行では“3時間半”に及ぶ長尺で、“ギャング映画”を製作し、公開するなんてことはほぼ不可能だろう。 巨額の製作費的にも、観客側のニーズ的にも、インターネットによる世界同時配信だからこそ成立した映画企画だったことは明らかで、この作品の“勝利”をきっかけとして、世界の映画人たちの“軸足”は益々変遷していくに違いない。  映画ファンの一人として、映画を「映画館」で鑑賞することの幸福は決して揺るがない、と思いたいけれど、本当に面白い映画を観ることができる「場所」が変わってしまうのならば、僕たち観客も“軸足”を変えざるを得ないだろう。
[インターネット(字幕)] 9点(2020-01-03 00:51:38)(良:1票)
6.  アナと雪の女王2
“ハッピーエンド”のその先へ。 生まれ持った「資質」にまつわる“重責”や“鬱積”、そして“真価”を本当の意味で「解放」する物語。 持つ者と、持たざる者、それを象徴する愛すべき姉妹の素晴らしい到達点。 なんてアメージングな映画だろうか。   前作「アナと雪の女王」はもちろん良い映画だったと思う。 ちょうど愛娘が物心ついた時期だったこともあり、わりと何度も繰り返し鑑賞してきた。 ディズニープリンセスの系譜の中で、そのクラシック性をベースに敷きつつも、テーマ的には殆どそれを「否定」するレベルでの新しい時代の新しい価値観を、主人公の“お姫様姉妹”に表現させてみせたことは、アニメーション映画としてとてもチャレンジングであった。 社会現象まで引き起こす世界的なヒット作になったことも含めて、映画史上における価値も無論否定しない。   ただしその一方で、個人的な心情としては、何か一抹の“モヤモヤ感”が心のどこかに存在していて、そのことが世間の過剰な盛り上がりに対して、一歩引かせてしまっていたことも事実だった。 この続編を観てようやく明確になったことだが、そのモヤモヤの正体は、女王エルサの深層心理についてだった。分かりやすく言い換えれば、彼女の「本音」と言ってしまってもいいかもしれない。   魔法の力を生まれ持ったエルサは、妹を傷つけてしまったことや、両親の死に対して、自身の能力を呪い、それを隠すように長年に渡って引き篭もった。 そのひた隠してきた能力が、妹アナをはじめとする周囲の人間にあらわになってしまったことをきっかけに、彼女は鬱積してきた思いをぶちまけ、その資質を解放する。 そう、その様を描いたシーンこそが、前作最大のハイライトである「Let It Go」の歌唱シーンである。   逆に言うと、前作には、「Let It Go」のシーン以上にエモーショナルな場面が無い。 それはつまり、結局エルサは、「Let It Go」の前はもちろん、その後のシーンでも、更には“ハッピーエンド”のその後(短編2作含め)に至るまで、妹のアナにすら「本音」をぶちまけられていないことに他ならないのではないか。 エルサが「本音」を吐露したのは、“ありのまま”の自分を初めて自分自身で認め、高らかに歌い上げたあの最高の歌唱シーンのみだった(最後のちょっと“悪い顔”も最高)。 その彼女の“モヤモヤ”が、前作鑑賞時の僕自身の“モヤモヤ”と無意識レベルで直結していたのだと思う。   今作の冒頭でエルサ自身が認めているように、前作のハッピーエンド以降、彼女は「幸福」に包まれて王国の女王として生きることができている。 アナをはじめ、すべての国民たちは、女王である彼女を心から敬愛し、慈愛を向けている。   だがしかし、「果たしてそれが本当に彼女(エルサ)らしい生き方なのか?」ということ。この続編のテーマはそれに尽きる。   そもそもなぜエルサには魔法の力が与えられているのか。 国王である両親たちはなぜ幼い姉妹と国民を置いて危険な船旅に出掛けたのか。 そして、アナにはなぜ特別な力が備わっていないのか。   前作では、スペシャルな楽曲の数々によって巧妙に覆い隠されていたそれらストーリー上の欠落ポイントが、今作では壮大な物語性とストーリーテリングによって、補われ、きっちりと埋められていく。  そしてエルサは、「女王」としてではなく、一人の「人間」として、生まれ持った資質を解放させ、自らの存在意義と辿るべき“生き方”を見出していく。 彼女のその様は、喜びと尊厳に満ち溢れており、前作の「Let It Go」以上にエモーショナルなシーンの連続だった。   更には、すべてを決着させるための「決断」と「行動」をアナに担わせることで、この物語は素晴らしい到達点を見せる。 それは、この姉妹が「対」として存在し、「共に生きること」の“本当の意義”の表明だ。  必要だったのは、自然の猛々しい流れを強引に堰き止める巨大なダムなどではなく、姉と妹の二人をそれぞれの“袂”とした「橋」だったということ。 ぴったりと寄り添うことばかりが「共に生きる」ということではなく、互いの意志と資質を尊重し、たとえ離れていたとしても気持ちを行き交わすことも、間違いなく「共に生きる」ということであるという帰着。 “二人の女王”が、それぞれの場所で、互いを思うラストシーンには感嘆せずにはいられなかった。   前作の奇跡的な存在感を放つ楽曲群と比較すると、確かに“聴き劣り”はするけれど、それを補って余りある圧倒的なビジュアル表現とスペクタクルシーンの連続は、「圧巻」の一言だったし、連作を通じて物語全体の価値を高める素晴らしい続編だったと思う。
[映画館(吹替)] 9点(2019-12-26 23:31:52)
7.  IDOL-あゝ無情-
まさにちょうど一年前に、「BiSH」という“アイドルグループ”を知り、瞬く間にドハマりし、虜になった。 そしてYou TubeやTwitterをフル回転して彼女たちのことを掘り起こしていく過程の中で、必然的に所属事務所である「WACK」を知り、その社長兼プロデューサーを務める「渡辺淳之介」という人物のことを知った。  BiSHは勿論、同じくWACKに所属する他のアーティストも、皆アイドルとしても、女性シンガーとしてもエモーショナルで、それぞれのパフォーマンスを見漁り、聴き漁った。 僕にとって、この一年は「WACKの一年」と言ってしまって過言ではなく、その一年の締めくくりとしてこのドキュメンタリー映画を劇場鑑賞したことは、中々相応しい体験だったと言えよう。  この作品は、或るアイドルオーディションの一部始終(の中のほんの一部)を映し出したドキュメンタリーであり、アイドルを夢見る女性たちの“烈しい”軌跡が描き出されている。 が、しかし、実はこの作品の焦点は、オーディションに挑む参加者たちには当たっていない。彼女たちの“夢追い物語”が主題ではないのだ。  それでは、オーディションと並行して繰り広げられるWACK所属グループ「BiS」の“解散劇”が今作の主題だろうか。 確かに、本来“主役”であるべきオーディション参加者をよそに、カメラの中心には、解散の瀬戸際で苦悩し泣き叫ぶBiSのメンバーたちが常に映し出されている。 憔悴するアヤ・エイトプリンス、懇願するムロ・パナコ、止めどない彼女たちの涙と苦悶の表情が、このアイドルドキュメンタリーのハイライトであることは間違いない。 でも、その彼女たちの姿、言動すらも、この作品のメインテーマの一つのファクターに過ぎなかった。  すべては今作のタイトルに表れている。 「IDOL-あゝ無情-」、他の誰よりもこの感情を覚え続け、時に呑み込み、時に吐露し続けてきた人物の苦悩こそが、今作の主題だ。 その昔、初めて担当し育て上げたアイドルグループを売れさすことができずに、解散となった事実と無念を今なお抱え続け、それでもアイドルを生み出し続ける男。 事務所の社長としての重責と、生みの親としての愛情の狭間で、彼はこの映画の中で、終始怒り、失望し続ける。 誰よりも「悪者」になっているその男が、誰よりも彼女たちを愛していることは明らかだ。  その男は、これからも少女たちの“夢”を生み、育み、壊し、ひたすらに進んでいく。 なんて悲しい、なんて虚しい。 まさしく「無情」そのものだけれど、その闇が深まるほど、表裏一体の光はより一層に眩しく輝くことを彼は知っている。 その光がほんの一瞬の儚きものだったとしても、彼はそれを追い求めることを躊躇わない。
[映画館(邦画)] 9点(2019-12-18 14:14:24)
8.  アド・アストラ
秀麗な映像美と宇宙美。それによって描き出される文字通りの“果てしない孤独”。 人類というものは、結局、どんなに文明と技術が発達しようとも、生物として進化しようとも、宇宙の果てに辿り着こうとも、「孤独」と「怒り」に苛まれる宿命なのかもしれない。 「英雄」と称された宇宙飛行士の父親の遺志を継ぎ、自らも優秀な宇宙飛行士として、感情を噛み殺して生きてきた男が、遂に辿り着いた場所と、誰にも伝わらない“咆哮”は、何とも虚しく、哀しみに満ちていた。  広大な宇宙を舞台にし、描かれたテーマは、極めて普遍的な人間の精神的な不器用さと、父子の物語であり、“感慨深げ”なものだった。 だがしかし、結論めいたことを言ってしまうと、残念ながらこの映画は、圧倒的に「退屈」だ。 「惑星ソラリス」(苦手)を彷彿とさせる諦観的なストーリーテリングが、退屈感を生んでいるように見えるけれど、実はそうではない。 ドラマシーン、スペクタクルシーン含め、映画全編のあらゆるシークエンスの宇宙描写が、この手のSF映画としては根本的に陳腐で、“トンデモ映画”になってしまっている。 映画のところどころで挟み込まれてしまう「変じゃない?」「あり得なくない?」という疑問符が、明らかな雑音となり、目指すべき映画の世界観を阻害しているのだろうと思う。  加えて、本筋となる太陽系を縦断する規模のSFミステリーについても、語り口も、真相も、極めて凡庸と言わざるを得ず、物語の帰着としても納得のいくものではなかった。  主演のブラッド・ピットは、スター俳優としての円熟味を携えてきており、一昔前とは異なる格好良さと渋みを見せてくる。 それだけに、作品としての質がもっと高ければ、新たなSF映画の傑作にもなり得たんじゃないかと思える。 非常に残念だが、例によってブラッド・ピット自身が製作も担っているようなので、すべての責任は彼にあると言っていいだろう。
[映画館(字幕)] 4点(2019-09-30 23:25:51)(良:1票)
9.  アベンジャーズ/エンドゲーム 《ネタバレ》 
トニー・スタークがアイアンマンになって10余年。僕たちは、彼が幾つもの眠れぬ夜を過ごしてきたことを知っている。 そのトニーの姿を一番近くで見続けていたのは、他の誰でもなくペッパー・ポッツだったということ。 だからこそ、ポッツは、遂に“闘い終えた”トニー・スタークに対して、努めて穏やかに「眠って」と言葉を送ったのだ。  もうね、涙が止まらなかった。高揚感、喪失感、そして多幸感と感謝、涙の理由は多層的に渦巻き、正直なところ初回鑑賞時には感情の整理がつかなかった。 そして、マーベル・シネマティック・ユニバース(MCU)が、「アイアンマン」からこの「エンドゲーム」に至るまで描き連ねてきたものは、“ヒーロー”という宿命を背負った者たちの自らの「運命」に対する抗いと享受の物語だったということを痛感した。 MCUのヒーローたちは、自らの運命を憂い、おびただしい傷を負いながら、藻掻き苦しむ。 時に混乱し、対立し、選択を見誤ることもあるけれど、決して彼らは諦めない。再び立ち上がり、強大な敵=運命に“Avenge(復讐)”する。 その姿に、僕たちは憧れ続ける。それは必ずしもスーパーヴィランに打ち勝つスーパーヒーローだからではない。 彼らは皆、ヒーローであると同時に一人の人間だ。その一人の人間としての弱さや脆さすらもひっくるめた強さに憧れるのだ。  この一つの「時代」を築き上げたヒーロー映画シリーズの最終局面である本作には、“市井の人々”は殆ど映し出されない。 必然的に、ヒーローたちが市民の危機を救うシーンは皆無だ。巷ではそのことに対して批判的な論評もあるようだが、僕は異を唱えたい。 本作に限っては、アベンジャーズが僕たち一般人を救い出すシーンなど必要ないと思う。 なぜなら、「彼らは、僕ら」だからだ。  スーパーヒーローの一人ひとりが、時に弱く脆い一人の人間であることと同時に、我々一人ひとりの人間が、時に強く勇敢なスーパーヒーローにもなり得るし、そうでなければならない。ということを、このエンドゲーム の“大合戦”はありありと映し出していた。 遂にスーツを纏い、夫と背中合わせで戦うペッパー・ポッツは勿論、テレパスのマンティスやシュリ(プラックパンサーの妹)など、非戦闘員のキャラクターたちが、名だたるヒーローたちの先陣を切るようにしてサノス軍に立ち向かっている。 クライマックスにおいて画面いっぱいに映し出されたこの異様な迫力に溢れた「構図」が表す意味は明らかだ。 もはやこの局面において、スーパーヒーローかそうでないかなど関係ない。強大な悪と理不尽な暴力によって大切なものを奪われた全ての者たちが、「正義」の名の下に復讐に挑む。 それは、溜めに溜めたキャップの「Avengers Assemble」の一声と共に、ヒーローたちのみならず我々人類全員が「アベンジャーズ」となった瞬間だった。 だから、この映画に限っては、ヒーロー映画であっても“救う”シーンは必要なく、全員で“戦う”シーンで占められているのだ。  と、まあ初鑑賞からかれこれ日数が経っても、熱くならずを得ず、また語り尽くせぬ。 10年以上に渡り、この類まれな映画体験を享受できたことを、只々幸福に思う。  70年遅刻のデートを果たしたスティーブ・ロジャースに祝福を。 “不完全燃焼”のソーには、まだ何千年も残っているであろう人生に敬意(と密かな期待)を。 そして、Thank you Tony. Thank you Avengers,3000.
[映画館(字幕)] 10点(2019-04-27 00:09:40)(良:3票)
10.  アントマン&ワスプ
前作「アントマン」は、「アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン」と「シビル・ウォー」の狭間で公開され、両作の色々な意味で“重い”作風に対して、一服の清涼剤となるような良い意味でライトで痛快無比な最高のヒーロー映画だった。 続編となる今作もその立ち位置は変わっていない。あの「アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー」の重苦しい“悲劇”の直後のMCU作品として、“清涼剤”としての役割は前作以上に大きかったことだろう。  キャストとスタッフが概ね続投されていることもあり、映画のクオリティやテイストに大きな変化はなく、前作同様ヒーロー映画として十二分に楽しい作品に仕上がっていると思う。  ただし、前作ほどのフレッシュさは流石に薄れている。 美しく強い“ワスプ”は魅力的で、表題に割って入ってくるのも納得だけれど、アントマンとのパートナーとしての関係性自体は、前作時点で既に築かれていたものなので、安心感はあるものの特段目新しさは無かった。 アントマンの“巨大化”のくだりも、「シビル・ウォー」で“ネタ見せ”してしまっているのでインパクトに欠けていた。 ストーリーの肝である量子世界への突入についても、既に前作で帰還に成功しているわけだから、新たな緊迫感を生むには至っていないと思う。  それでも前作同様の娯楽性を担保できているのは、やはり登場するキャラクターとそれを演じるキャスト陣が魅力的だからだろう。 アントマンことスコット・ラングを演じるポール・ラッドをはじめ、ワスプ役のエヴァンジェリン・リリー、ハンク・ピム博士役のマイケル・ダグラス、そしてなんと言っても悪友ルイス役のマイケル・ペーニャらのパフォーマンスが安定している。そんなレギュラーメンバーたちの掛け合いを見ているだけで楽しい。 またスコットの娘ちゃんは健気で可愛いし、普通の映画だったら憎まれ役になりがちの娘の“継父”すらも端役ながら最高なキャラクター性を見せてくており、ほっこりさせてくれる。  というわけで結果的には、前回と同じく“清涼剤”の役割をしっかりと果たしてくれていることは間違いない。 が、「覚悟」はしていたけれど、MCUにおいて痛快無比なこの作品においても、あの無慈悲な“チリ”を舞わせるとは……何とも容赦ない。 でもね、アベンジャーズの超人オールスター勢の中で、スパイダーマンでも、ブラックパンサーでも、ドクター・ストレンジでもなく、スコット・ラングという「小物」が生残されたことは、きっと“大きな”意味を持つと期待せずにはいられないよね。
[インターネット(字幕)] 7点(2019-03-21 18:27:49)(良:2票)
11.  アクアマン
「ロード・オブ・ザ・リング」+「ブラックパンサー」+「ドラえもん のび太の海底鬼岩城」という式がぴたりと当てはまる。 そしてそれは、それぞれの過去作に対して“二番煎じ”というわけでは決してなく、あらゆる要素が大渦のように轟々と混ざり合い、まったく新しい「娯楽」の世界へと誘ってくれる。 詰まるところ、DCコミックスが放った新たなスーパーヒーロー映画は、「ワンダーウーマン」に引続き、最高の娯楽映画だったということだ。   大々的にイントロダクションされている通り、全編通して繰り広げられる海中アクションがやっぱり凄い。 映像技術の進化に伴い、水中描写そのものはそれほど珍しくなくなったが、今作ほど主要シーンの殆どが海中シーンであり、文字通り縦横無尽のアクションを展開させた映画はなかったのではないか。 そして、イマジネーションが満ち溢れる海底都市の魅惑的なビジュアルは、まさしく「誰も見たことがない」映像世界だったと思える。 また、果てしない奥行きを備えた海中世界の描写はIMAX3Dとの親和性も極めて高かった。   その圧倒的な映像世界と、凄まじいアクションシーンを司ったジェームズ・ワンの映画監督としての力量はやはり卓越している。 マレーシア出身のこのアジア人監督は、時に豪胆に、時に繊細に、広義の意味での“アクション”を膨大な映像的物量で積み重ねつつ、巧みに整理し、この大バジェット映画を支配している。 逃亡中の主人公らがヴィランに襲撃されるシチリアのシーンでは、ありがちな攻防戦を巧みな空間演出とカット割りによって、白眉のアクションシーンに昇華させている。 屈強でゴージャスなハリウッドスターの狭間で、マジックのような演出を施すこの小さなアジア人監督には、これからも新しい映画企画をどしどし回すべきだと思う。   「ジャスティス・リーグ」そして今作で、見事に“海の王”のキャラクターをものにしてみせたジェイソン・モモアのスター性も文句無く、もっとこの濃ゆい俳優によるアクアマンを観てみたいと思わせた。 現時点では「ジャスティス・リーグ2」の公開は定かにはなっておらず、今作においてもクロスオーバー的な描写が殆ど無かったことは残念だったが、隆盛を極めた“ライバル”に対して、DCコミックスの反撃態勢は確実に強く固まってきている。
[映画館(字幕)] 9点(2019-03-02 17:54:45)
12.  アリータ:バトル・エンジェル 《ネタバレ》 
序盤から何だかいやな予感はしていた。 舞台はディストピア、何らかの過去を抱えた選ばれしヒロイン、苦境の中で芽生える無垢な恋心、絶対的権力と運命に対する若者たちの抗い……ああ、この流れは、典型的な量産型ティーン向けムービーじゃないか。 有り触れたクライマックスと、見え透いた続編に向けたラストシーンを迎えた頃には、すっかり気持ちは萎えてしまっていた。   ジェームズ・キャメロン、ロバート・ロドリゲスというビックネームが名を連ね、クリストフ・ヴァルツ、マハーシャラ・アリらアカデミー賞俳優が顔を並べた今作のインフォメーションは魅力的だった。 久しぶりに登場したジェームズ・キャメロン御大に「革新的映像!」と日本人向けに煽られては、そりゃ期待せずにはいられないじゃないか。 というわけで、昨年早々のトレーラー公開時から期待値は非常に高かったのだが、結果としては非常に残念な仕上がりだった。   映像世界の作りこみは確かに凄いとは思うが、決して目新しさがあったわけでもなく、「革新的」と謳うわりにはあまりに物足りなかった。 トレーラーの段階では、“違和感”を“期待感”が凌駕していたけれど、主人公の造形をあからさまなCGI的な風貌にした意図も、結局ちょっとよくわからなかった。  非人間的な造形のスーパーヒロインが、ひたすらにハードアクションを繰り広げ、死屍累々の上に立つさまをおぼろげに想像したが、そういう振り切れた描写も殆どなく、ロバート・ロドリゲスが監督を担った意味も皆無だったといわざるを得ない。   日本の原作漫画も未読なので、このあとにどんなストーリー展開が備わっているかは知らないけれど、少なくともこの映画作品の方向性では続編への期待は薄い。 ついでに、御大が満を持しての続編を公開する「アバター」に対しても、極めて懐疑的になってきた。
[映画館(字幕)] 2点(2019-02-23 23:58:41)
13.  アノマリサ
冒頭から、強烈な“違和感”を突きつけられる。 或る都市へ向かう飛行機内の乗客たちの何気ない会話音のはずだが、なんだか物凄く気持ちが悪い。 その理由が、乗客の声がすべて同一の無機質な男の声であることに気づくのに時間はかからないけれど、なぜそんな奇妙な設定になっているのか、得体の知れない世界観に突如放り込まれたような感覚を覚えた。  カスタマーサービス業における啓発で名声を得た主人公は、見るからに憂鬱な眼差しを携えつつ、講演のため異国の街に降り立つ。うつ病を患っているらしい彼は、自分以外の周囲の人間がすべて同じ顔に見え、同じ声に見える。 ストップモーションアニメによる絶妙に悪趣味な造形も手伝って、人形とは思えないリアルな描写が妙に生々しく、痛々しく、居心地の悪さに包み込まれる。  某動画配信サービスのラインナップの中から、特段予備知識も入れないままに鑑賞を始めたこともあり、「何を見せられるのか?」という期待と不安が入り混じった感情が、展開とともに、徐々に確実に大きくなっていった。  ストーリー展開自体は極めてミニマムだ。 翌日の講演のために前泊したホテルでの一夜を、過剰とも言える細やかさで描き連ねている。 主人公の一挙手一投足を並べ連ねていくことで、彼が抱える鬱積と闇が自然に見え隠れする。 そして、この男の、生々しく痛々しい様を見るにつけ、彼が何故ゆえ世界から孤立し、奇妙な環境の中で生きざるを得なくなっているのかが見えてくる。  主人公の正体、そして映画の正体の輪郭が見え始めた頃、「ああ、そうか、これがチャーリー・カウフマン(の映画)だったな」と思い出した。 「マルコヴィッチの穴」しかり、「アダプテーション」しかり、“こじらせオヤジ”を描かせたら、やはりこの人の右に出る者はいない。  ラスト、自宅に帰り着いた主人公は、再び孤立し、“玩具屋”で土産に買った壊れた奇妙な絡繰人形と対峙する。 まさかの「桃太郎」を歌う(気持ち悪い!)その人形を前にして、果たして彼は己の愚かさに気づいたのだろうか。
[インターネット(字幕)] 8点(2019-02-07 23:30:25)
14.  アイ,トーニャ 史上最大のスキャンダル
“トーニャ・ハーディング”が、テレビカメラ越しに、やや諦観しているような真っ直ぐな眼差しで、軽薄な「大衆」に向けて、「あなた」という呼びかけと共に、静かな怒りと諦めをぶつける。 「あなた」というのは、まさに自分自身のことだと思えた。  1994年のリレハンメル五輪のあの冬、僕は13歳からそこらだったと思うが、トーニャ・ハーディングが途中で演技を止めて、審判席に詰め寄る光景をよく覚えている。 そして、僕は確かに、彼女のその様を、「往生際の悪い女だ」と、好奇と侮蔑を携えて見ていたことも、よく覚えている。 年端もいかない“ガキ”だったとはいえ、断片的に伝え聞いていたのであろうワイドショーの情報と、衛星中継の一寸の光景だけで、そういった底意地の悪い感情を抱いてしまったことは、恥ずべきことだったと思う。 結局、何が「真実」かなんてことは分からないけれど、自分も含めた大衆の無責任さは痛感せざるを得ない。  それにしても、一流アスリートとオリンピックを巻き込んだあの一連のスキャンダル事件を、このような形で、スポーツ映画としても、一人の女性像を描き出す作品としても成立させ、見事な傑作として完成させてみせたことには驚かされた。  マーティン・スコセッシの犯罪映画のようでもあり、デヴィッド・フィンチャーの実録映画のようでもあり、最新の撮影技術を駆使した確固たるスポーツ映画でもある今作は、極めて芳醇な多様性を孕んでいて、最初から最後まで決して飽くことがない。 二十数年前のスキャンダルを知っていても、知らなくても、面白みを堪能できる作品に仕上がっていることは、虚偽と真相、フィクションとノンフィクションの境界を描く今作が、大成功を収めていることの表れだろう。  演者で特筆すべきは、やはりなんと言ってもマーゴット・ロビー。 どこまでも愚かであり、どこまでも不憫な実在の女性像を見事に表現しきっている。そして、間違いなく世界トップクラスのフィギュアスケーターだったトーニャ・ハーディングを演じるにあたってのアスリートとしてのアクションも、極めて高い説得力と共に体現していたと思う。  ラストシーン、スケート界から追放された主人公は、ボクシングのリング上で、アッパーカットを浴び宙を舞う。 その様をかつての“トリプルアクセル”と重ねて映し出すという「残酷」の後、リングに打ち付けられた彼女は再びこちらを見つめてくる。 この映画は、無責任な好奇の目に晒され続けた彼女が、それを浴びせ続けたこちら側を終始見つめ返す作品だった。
[DVD(字幕)] 9点(2018-11-23 23:52:48)(良:2票)
15.  アンダー・ザ・シルバーレイク
久しぶりにイカれた映画を観たな。と、新宿バルト9を後にした。 “ヒッチコック+リンチ=悪夢版ラ・ラ・ランド”的な寸評コメントは、やや安直にも聞こえるが、確かにそう感じずにはいられない空気感が随所に感じられた。 二十歳になったばかりの頃に観たデヴィッド・リンチの「マルホランド・ドライブ」鑑賞後の困惑を彷彿とさせられた。  ただ、「マルホランド・ドライブ」ほど難解で手がつけられないということではなかった。 ストーリーテリングはいかにも混沌としているけれど、紡ぎ出された事の真相と顛末は意外にシンプルだった。  三十路を過ぎて、恋に破れ、夢に破れ、己の人生を見いだせないまま空虚な生活を送る主人公が、不意に訪れた出会いと喪失に端を発して、盲目的に、破滅的に、人生の意義を掴み取ろうとする話。 主人公は、或る種の強迫観念にせっつかれるように、世の中に渦巻く(かもしれない)陰謀論と暗号の解読に、自分の“居場所”を見出そうとするわけだ。 結果として、確かに暗号はあった。そして、主人公は自分の知り得なかった世界を垣間見る。 しかし、それだけだ。 暗号を解き、この世界に隠された理を知ったところで、そこに彼の居場所はなかった。彼はその真理を思い知り、打ちのめされる。  果たして、彼は、この淫靡で妖しい冒険を経て、何かを得られたのだろうか、空虚な自室を出て、新たな世界を踏み出せたのだろうか……。 当然ながら、このヘンテコリンな映画が分かりやすいハッピーエンドを描くわけもなく、熟女とのセックスの後に気だるく佇む主人公の姿を映し出し終幕する。  カオス。しかし、この“混沌”は映画世界と現実世界の境界線を、フクロウ女のように奇妙に、強引に、越えてくる。
[映画館(字幕)] 8点(2018-10-25 01:52:04)
16.  アバウト・タイム 愛おしい時間について
とても愛らしい映画だった。この映画が多くの映画ファンに愛されている理由がよく分かる。  タイムリープ能力を有した主人公のラブストーリーといえば、傑作「バタフライ・エフェクト」だったり、クリストファー・リーブの「ある日どこかで」だったり、今作同様レイチェル・マクアダムスがヒロインの「きみがぼくを見つけた日」など、古今東西多々あり、個人的に好きなジャンルでもある。 それらの多くは、主人公たちの悲恋の切なさや美しさを、練り込まれたストーリーテリングの中で描き出すが、今作はそういうジャンル性の中において一風変わっている。 “変わっている”というよりは、想定外に“どストレート”なストーリー展開が逆に特徴的に感じたのだと思う。  この手の映画の多くは、“タイムトラベル”とういアイデアをどう活かして、独創的なストーリーを紡ぎ出すかに注力するものだが、この映画において、“タイムトラベル”という要素は、一つの小道具に過ぎない。 ストーリーの妙ではなく、あくまでも主人公が織りなす恋愛模様、家族模様、それらすべてをひっくるめた人生模様の素晴らしさをストレートに、真っ当に描き出すことを最優先にしている。 そこに映画作品としての新しさや、特筆する発見はないけれど、てらうことなく、人を愛することの素晴らしさ、家族を持つことの素晴らしさを真っ直ぐに伝えてくれるからこそ、この映画はあまりに愛おしいのだと思える。  ふいにタイムリープ能力を得た主人公は、ひたすらに誰かを愛することに没頭し、文字通り時間を駆け巡る。 そして、人生と、それを司る「時間」という概念に対するひとつの真理にたどり着く。 それは、「綺麗事」などと片付けてしまうには、あまりに勿体ない僕たちの人生に備わっている「価値」だ。  秋深まる深夜、映画を観終え、清々しく床に就く。 思わず、すでに眠っている妻にキスをし、娘を抱きしめ、息子の頭を撫でてやりたくなる。 明日はみんなで、ごはんを食べよう。
[CS・衛星(字幕)] 8点(2018-10-21 17:39:11)(良:1票)
17.  アナイアレイション -全滅領域-
美しく、そして残酷な、“未知との遭遇”。 映画全編に渡る得体の知れない恐怖感と、「世界」と「世界」の狭間を描き出したビジュアルの美意識自体は、決して嫌いじゃなかった。 幻想的で、芸術的、そして観念的なアプローチによるSF的な解釈は、興味をそそられた。 けれど、映画の中の“調査隊”が謎と恐怖に包み込まれた真相に突き進む程、ストーリー的な推進力は緩慢になり、残念ながら面白味も霧散していくようだった。  詰まるところ、「SF」として物語を紡ぐには、それを語り切るに相応しいストーリーテリング力が欠如していたのだと思う。 理解し難く、“答え”そのものを観る側に委ねるタイプのSF映画は多々あるし、それはそれで大好物だけれども、この映画の場合は、秘められているのであろう“哲学性”が巧く表現できているとは言えず、展開の稚拙さや唐突さが雑音となり、それがどんどん大きくなったまま終幕してしまった。  ナタリー・ポートマン演じる主人公が、オープニングからエンディングに至るまで、ひたすらに「わからない」を繰り返すばかりでは、流石にストーリーそのものを放り投げすぎじゃないか。 そう思わせてしまった時点で、この映画の目指した“試み”は失敗しているのだと思う。 プロットやストーリーにおけるアイデアそのものは、過去のSFスリラーでも幾度も描かれている類のものなので、この映画が描いている顛末は何となく理解できる。しかし、観客にそれを腑に落ちさせなければ、それは単なる自己満足的な絵空事に過ぎない。  「エクスマキナ」で一躍気鋭監督となったアレックス・ガーランドの最新作であり、キャストも一流どころを揃えているにも関わらず、劇場公開が難航し、一転してNetflix公開となったこの映画の辿った道程の「理由」が、何となく見えてくる。  予算面含めて、もう少し製作環境が整っていたならば、それこそSF映画の新たな傑作になり得ていた可能性も感じるだけに、SF映画ファンとしては至極残念だ。
[インターネット(字幕)] 4点(2018-06-04 17:25:00)
18.  アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー 《ネタバレ》 
改めて辞書で確認してみると、「avenger」の意味は「復讐者」とある。つまり、このエンターテイメント大作のタイトルの意味は「復讐者たち」ということになる。 もはや熱心な映画ファンやアメコミファンでなくとも、「アベンジャーズ」という呼称は聞き馴染みのあるメジャーワードとなっているけれど、よくよく考えてみれば、ヒーローたちが集結した“チーム”の名称として、その意味は少々奇異に思える。 「復讐者たち」ということは、絶大なパワーを備えたチームでありながら、先ず危害を被ることを前提としているように聞こえるからだ。  しかし、その答えは、この“チーム”が結成された経緯を振り返れば明確になる。 各々がスーパーヒーローとしてそれぞれの「正義」を全うしていた中で、想像を超えた巨大な「悪」による恐怖と悲劇に晒される。ヒーロー一人ひとりでは到底太刀打ちできない。だから、結束して「復讐」をする。 絶対的な「巨悪」が先ずあり、それに対峙するために生まれた“チーム”だからこそ、彼らは「復讐者たち」なのだ。  彼らのその姿は、この現実世界の在り方とまさに“合わせ鏡”だ。 普段、この世界では、それぞれの国、それぞれの民族、それぞれの人が、てんでバラバラに己の「正義」を振りかざしている。 何かしらの問題や課題、共通の「敵」が存在したとき、初めて人々は同じ方向を向くことができる。 言い換えれば、何か「実害」が生じなければ、我々は結束することが出来ない。  なんとも歯がゆく、なんとも愚かしい。 ただそれが人間の正直な姿であり、「そうじゃない」と否定したところで何も始まらない。  その人間の、歯がゆく愚かな本質を根幹に据えたヒーロー像こそが、「アベンジャーズ」の正体なのだと思う。 彼らは人智を超越したスーパーヒーローではあるけれど、間違いも起こせば、失敗もする。そしてその都度、甚大な被害を生み、傷つき、苦悩する。  だけれども、彼らは常にそこから立ち上がり、己の間違いを正し、悪を叩き、ついに「復讐」を果たす。 だからこそ、僕たち人間は、彼らの活躍に熱狂するのだ。   満を持しての第三弾。“復讐者たち”は、あたかもそれが彼らの宿命であるかのように、打ちのめされ、紛うことなく過去最大の悲劇を叩きつけられる。 重く悲しい旋律がシアター内を包み込む。鑑賞を共にしたすべての観客が、絶望感と共に押し黙っているようだった。 誰も席を立つはずもなく、エンドロール後に示されるはずの「希望」を心待ちにしていた。 ようやく隻眼の司令官が登場し一寸安堵する。が、まさか、彼に「mother f*cker」すら言わせないとは。 “サノス”は「慈悲」だと言ったけれど、何たる無慈悲か。   でも、僕らは知っている。 チーム結成時の「6人」は、“二分の一の賭け”に勝ち残っているということを。 そして、「アベンジャーズ」と名付けられた彼らの本当の「avenge=復讐」が始まるということを。  最高だぜ。
[映画館(字幕)] 10点(2018-04-27 23:49:03)(良:1票)
19.  悪女 AKUJO
冒頭から繰り広げられる“一人称視点”での大殺戮シーンを皮切りに、想像以上にぶっ飛んだ映画だった。良い意味でも悪い意味でも。 「ニキータ」+「キル・ビル」+「女囚さそり」+etc…古今東西のあらゆる“ヒロインバイオレンス”の要素を詰め込み、混ぜ込んだ上で、独特の空気感でぶっ込んでくる。 見せつけられるエンターテイメント性は強引ではあるけれど、極めて高い。  相も変わらず韓国映画の土壌は、よく肥えて、充実しているなあと思う。 ただし、数多の韓国映画の傑作の数々と比較すると、「稚拙」な部分は多々ある。特にストーリーテリングにおいてはトータル的に稚拙だったと言わざるをえない。 中盤に挟み込まれる恋愛シーン、回想シーンは、ヒロインの「業苦」を増幅させるために確かに必要な要素だったとは思うけれど、もう少し手際よく見せるべきだった。 それに特別捜査官の男の心情はもっと包み隠した演出にすべきではなかったか。序盤から彼の想いはダラダラと垂れ流されているため、感情移入はする反面、終盤の彼の行動にエモーションを感じることができなかった。 で、可哀想な“娘ちゃん”の出自は結局なんだったのか?中途半端な尻切れ感は、後味の悪さに悪い方向に拍車をかけている。  だがしかし、だ。冒頭から最後の最後までアクションシーンはまさに「怒涛」。それは否定できない。 想像よりもずっと「漫画的」な映画で、上質な傑作とは言い難いが、「殺人の告白」に続きこの監督の良い意味でも悪い意味でも雑多な味わいは、一つの特徴だと思う。  ストーリーの粗とチープささえ嘲笑うかのように、「絶望」なんて言葉を遥かに通り越した終着点で高笑いを見せる“悪女”のおぞましい姿に絶句。
[映画館(字幕)] 7点(2018-03-01 23:15:55)
20.  アシュラ(2016)
冒頭の主人公自身のモノローグにもあるように、この映画の主人公は、権力者に尻尾を振る「犬」だ。 主人公だけではない、登場する主要人物の全員が、欲望と狂気に塗れた「犬畜生」だ。 何のためらいもなく全ての人間が私利私欲を追い求め、薄汚れた街、血塗られた人間関係の中で、凄惨な“サバイバル”を繰り広げる。 骨太の韓国映画らしく、その描き出し方に、躊躇や遠慮はまったくない。 だからこそ、胸糞悪い描写の連続でカタルシスなど生まれるわけもないはずなのに、最終的には妙な清々しさすら覚えた。  架空の都市アンナム市を舞台にして、汚職刑事、悪徳市長、傲慢検事らが欲望の渦の中で入り乱れ、文字通り阿鼻叫喚の地獄絵図を作り上げる。 その血みどろの人間模様を表現している韓国映画の俳優たちが、相も変わらず、みな「素晴らしい」の一言に尽きる。 架空都市を舞台にしていることからも明らかなように、今作は決して現実世界に対してリアルな映画世界を追求しているわけではない。 だがしかし、そこで息づく人間たちの有様は実在感に溢れ、あまりに生々しい。 彼らが辿り着く“阿鼻叫喚”は、明らかにフィクショナルなはずなのに、我々が巣食うこの世界と地続きであると感じさせ、殊更に背筋が凍る。  見事な韓国人俳優たちの中でも特に圧倒的だったのは、「映画史上最凶の“市長”」と言って過言ではない悪徳市長・パク・ソンベを演じたファン・ジョンミン。個人的には、2013年の韓国ノワールの傑作「新しき世界」でのチョン・チョン役も記憶に新しい。この実力派俳優の映画全体における「支配力」があったからこそ、この映画は特別なものになり得ていると思う。全く見事だった。   また中盤における、まさしく「縦横無尽」のカメラワークを見せるカーチェイスシーンをはじめ、随所に挟み込まれるアクションシーンもすべてがハイクオリティーでフレッシュ。 改めて韓国映画の芳醇さを感じずにはいられなかった。  バイオレンス映画としての高い娯楽性を携えつつ、味わいの深さと絶妙な軽妙さをも併せ持つ佇まいは、マーティン・スコセッシの映画世界をも彷彿とさせる。 御大本人によるリメイクも十分あり得るんじゃなかろうか。
[インターネット(字幕)] 8点(2017-11-20 17:05:45)
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