141. ラストナイト・イン・ソーホー
“ソーホー”とは、ロンドン中心地に位置する1エリアのこと。古くは性風俗店や映画施設が並ぶ歓楽街として栄え、現在では高級レストラン、メディア関連企業が立ち並ぶロンドンにおける文化・ファッションの中心地となっているようだ。 そういうイギリス及びロンドンという街の歴史や、文化的な文脈に精通していれば、より一層この映画の魅力は増大したことだろう。 僕自身はそういったロンドンの風俗や文化に傾倒しているわけではないので、何となくの「雰囲気」のみでしか本作の魅力を感じ取ることはできなかったけれど、それでもこの映画世界が発する色香や艶めかしさ、そしてのその真裏に蠢く罪や闇は、如実に感じることができた。 往年のロンドンの歓楽街が発する輝きとそれに対する憧れ。表裏一体に存在する悲しみと憎しみ。 国内外問わず、過去の文化やファッションに対するリスペクトは尽きないけれど、それらが成立していた当時の社会の本質が、現代社会の価値観によって露わになったとき、そこには「恐怖」や「憎悪」として蘇る要素が溢れかえっている。 ファッションデザイナーを志す主人公の田舎娘が、上京に伴うあらゆる刺激と共に感じ取ったものは、長い年月の中で累々と積み重ねられた女性たちの“怨念”そのものだったのだろう。 描き出されるストーリーの顛末自体は、ありふれており、サスペンスとしてもホラーとしてもオーソドックスだと言える。 ただしそこには、監督エドガー・ライトのシネフィルらしいエッセンスが散りばめられ、必ずしもストーリー展開に依存しない映画的魅力が詰まっている。 現代と60年代の“ソーホー”という歓楽街自体が巨大な“キャラクター”として存在し、この特異な映画世界の骨格を担っている。 そして、その中で文字通りくるくると入れ替わるように立ち回る二人の若き女優が、互いに輝き、照らし、光と影を表現している。 トーマシン・マッケンジーとアニャ・テイラー=ジョイ、幾つもの話題作で印象的な存在感を示している両女優の競演こそが、本作の最大の魅力だと言ってもいい。 ストーリーの展開共に、合わせ鏡のような二人が置かれた立場と心象風景は交錯し、作品テーマとしての陰と陽を織りなしていたと思う。 前述の通り、練られたストーリーや深いドラマ性があるタイプの作品ではなく、歪に偏った映画であることは間違いないが、それ故に忘れがたきカルト性を備えた作品に仕上がっている。 [インターネット(字幕)] 8点(2022-07-03 00:04:58)(良:1票) |
142. ナイル殺人事件(2020)
《ネタバレ》 梅雨の日曜日。特に天気が悪いわけではなかったが、前夜の深酒がたたり午後になっても二日酔いが辛かったので、部屋に引きこもって映画を観ることにした。 随分前から動画配信サービスのマイリストに入りっぱなしになっていたケネス・ブラナー版の「オリエント急行殺人事件」を鑑賞し、立て続けにその続編である本作「ナイル殺人事件」を鑑賞。 異国情緒溢れる豪華絢爛な映画世界をトータル4時間分堪能して、取り敢えず満腹感は大きい。 「オリエント急行殺人事件」と同様に、本作の原作「ナイルに死す」も過去幾度も映像化された作品。ピーター・ユスティノフがポワロを演じた1978年の映画作品も鑑賞済みだった。ストーリーテリングの細かい部分の記憶が薄れていたので、ミステリが展開していく流れについては新鮮に楽しめた。 がしかし、最終的に残った感想としては、1978年版を鑑賞した時と同じ不満を覚えた。 それは、「さすがに3人は殺されすぎじゃないか?名探偵さんよ」ということ。 無論のことながら、そもそも殺人事件が起きなければ「名探偵」というキャラクターは成立しないわけで、それはシャーロック・ホームズから江戸川コナンに至るまで古今東西の名探偵キャラの宿命であり苦悩であろう。 ただこのナイル川における連続殺人については、ポワロの失態と言わざるを得ない。 “オリエンタル急行”の場合は、殺人が計画されていた車両にあくまでも「偶然」乗り合わせた状態だったろうが、今回の場合は全く異なる。 身の危険を感じていた被害者本人から依頼され、「危険人物」とされる人間の存在も確認していながら、まんまと依頼人は殺され、第2、第3と惨劇は続き、最終的にはそれ以上の死人を生む悲劇へ終着してしまう。 しかも、大富豪御用達の豪華客船とはいえ、それほど巨大とは言えない船内での事件なので、ご自慢の“灰色の脳細胞”をフル回転させれば、惨劇を最小限に食い止める方法はいくらでもあっただろうと思ってしまう。 更に今回のリメイクでは、原作からの改変により、第3の被害者がポアロ自身の友人に変更されている。 目の前で殺人が行われた上に、大切な友人まで失う始末。嗚呼、なんと不憫な名探偵だろうか。 ケネス・ブラナー監督自身が、エルキュール・ポアロを演じるという大車輪の活躍を見せるこの新シリーズは、過去の作品よりもより一層ポアロという人間そのものの内面を抉り出そうとしている。 また人種問題をより浮き彫りにさせたり、ジェンダー問題を想起させるキャラ設定の追加をしたりと、決して小さくない改変に挑んでいる。 現代においてリメイクするにあたって、その意欲的な試み自体は評価したいところだけれど、それが作品世界の中で効果的に作用しているとは言い難い。 改変箇所が単なる「違和感」と感じてしまう部分は少なくない。 当初は計画していたエジプトロケが叶わず、シーンの大半をCG合成に頼らざるを得なかったことなど、作品全体から垣間見える「歪さ」は、製作における苦労は多分に物語っている。 そんな中でも、この原作に相応しい絢爛豪華な「雰囲気」だけはきっちりと保って、娯楽性を保っていることは、ケネス・ブラナーの堅実な尽力によるものだろう。 次作のプロジェクトもまだ残っているようなので、“髭”を蓄え直してどうか頑張ってほしい。 [インターネット(字幕)] 5点(2022-06-26 23:22:43) |
143. オリエント急行殺人事件(2017)
とても真っ当に「豪華絢爛」な映画だったと思う。 豪勢に作り込まれた列車内の美術や調度品、雪原を突き進む急行列車の雄大な風景、そして昨今ではなかなか見られない“オールスターキャスト”。 それらの娯楽要素がこの映画企画の中核であることは間違いなく、求められるクオリティでしっかりと仕上げてみせている。監督&主演を担ったケネス・ブラナーは、映画人として、相変わらず堅実な仕事を全うしている。 アガサ・クリスティの原作「オリエント急行の殺人」は、過去何度も映像化されたミステリーの古典であり、その知名度の高さは言わずもがな。必然的に、ミステリーの要である「真相」も既に世界中に流布されている。 普通ならば、オチが知れ渡っているミステリー映画を何度も観たいとは思わない。 それでもこの推理小説が何度も映像化されるのは、描き出される人間の群像の中心に、唯一無二のドラマ性が存在するからだろう。 僕自身が「オリエント急行の殺人」の映像化作品を観たのは、本作で4作目。 1974年のシドニー・ルメット監督作版、2010年のデヴィッド・スーシェ主演のイギリスのテレビドラマ版、そして三谷幸喜脚本による日本を舞台にしたスペシャルドラマ版(2015年)に続く、4度目の「オリエント急行殺人事件」となる。 本作も含めて、どの作品ともとても楽しんで鑑賞することができたことからも、僕自身この物語自体が大好きなのだろうと思う。(恥ずかしながら原作は未読なので、今更だけども小説も読んでみようと思う) そして、入れ代わり立ち代わり描き出される群像劇こそが肝の物語の特性であることが、オールスター映画として仕立てやすく、そもそもセレブリティを対象にした急行列車が舞台であることも相まって、「豪華」な映画世界を構築しやすいことも、この作品が映像作品として幾度も製作される要因だろう。 本作は、幾つかのキャラクター設定や人種設定の変更はあったものの、基本的には過去の映像化作品から大きく逸脱するものではなかった。 悪い言い方をすれば、斬新さというものは皆無と言ってよく、今の時代にリメイクされることの意義を問われることも致し方無いとは思う。 ただ敢えてオーソドックスにリメイクされることが、映画史の文脈において価値があることもあり、本作はまさにそういう類の作品だとも思う。 是非はともかくとして、監督も務める映画人が新たなエルキュール・ポアロを自ら体現し、ハリウッドきっての個性派のスター俳優が憎しみの象徴となる悪役を演じ、新旧の名女優たちが顔を揃えて世界一有名なミステリーを彩る構図は、ただそれだけでも確固たるエンターテイメントだったと思える。 過去の映像化作品と比較して、No.1ポワロは誰だとか、あの役はあの俳優の演技のほうが良かったなどと言い合うこともまた映画を楽しむことの一つだと思うのだ。 オーソドックスではあるものの、一つ一つのシーンやカットはとても丁寧に作り込まれていて、ケネス・ブラナーらしい様式美に溢れていた。 窓ガラスの縁でダブる乗客の表情や、「最後の晩餐」を思わせる横並びのカットで審判を受ける乗客たちの構図など、意欲的な画作りは交換が持てたし、本作が持つ味わい深さだと思う。 僕自身、改めて過去作を見返して、それぞれの「オリエント急行の殺人」を堪能してみようと思う。 [インターネット(字幕)] 7点(2022-06-26 23:20:07) |
144. Adam by Eve: A Live in Animation
どういう類いの作品であるかをろくに確認せずに、Netflixのピックアップに上がっていた中から作品時間のコンパクトさに惹かれて鑑賞。 実写とアニメーションが融合した興味をそそる映像世界ではあったけれど、存在すら知らなかった気鋭アーティストの“長編MV”だった。 こういう作品もあるのかと、“おじさん”なりに興味深かったけれど、何せ楽曲をほぼ聴いたこともないアーティストだったので、短いドラマパートの間に挟み込まれるMVの連続に入り込めなかったことは否めない。 映像自体はそれなりに作り込まれていたし、Tik Tok世代に向けられた歌詞表示付きの演出は、ファンにとってはエモーショナルなものなのだろう。 ただしそれが「独創的」であるかどうかは少々疑問。 「渋谷」を舞台にした少女たちの葛藤や鬱積を主軸にして展開される世界観は、既視感があり、特にアイドルグループ「欅坂46」が表現した世界観に重なる部分が多かった。 主役の女の子は魅力的だったが、完全に平手友梨奈に寄せたキャスティングだったと思う。 ともかく、結果的に面白かったかどうかは別にして、自分の興味の範囲外の作品に触れる機会はそれほど得られるわけではないので、そういう意味では良い機会だったと思う。 最後の楽曲でようやく「ああ呪術廻戦の主題歌の人か」と気づく始末。新しいアーティストももっと積極的に知らなければと思う。 [インターネット(邦画)] 3点(2022-06-26 23:16:09) |
145. 台風のノルダ
《ネタバレ》 まず、この作品は一体どういう“意気込み”で制作されたのかと疑問を禁じ得ない。 表層的には割と美しいアニメーションが映し出されるので、期待感は生まれる。一本の橋で繋がった小島に所在する学校という舞台設定もアニメらしく、そこで繰り広げられるであろう学園ドラマにエモーショナルを予感させる。 が、結果的に極めてチープで中身のない作品世界に只々落胆してしまった。 本当は長編アニメとしてスタートされたプロジェクトが、何らかの理由で予算ショートしてしまい、仕方なく短編アニメとして強引に仕上げざるを得なかったとしか思えない。 どうやら宇宙人(もしくは未来人?)らしい謎の美少女が世界を作り変えるために「人柱」になろうとするところを、浅はかな中学生男子コンビが“友情パワー”で強引に引き留めるという話。 大丈夫?それ。女の子を勝手に解放しちゃったけど、地球滅亡したりしない? おそらくは、後の「天気の子」的な、瑞々しくも壮大なボーイ・ミーツ・ガールを描き出したかったのだとは思うが、作品に必要なあらゆる要素が欠落してしまっているので、ただ「意味不明」な物語に終始ししてしまっている。 短い上映時間に釣られて安易に観てしまったが、結果的にその26分間すら冗長に感じてしまうくらいに残念な作品だった。 [インターネット(邦画)] 2点(2022-06-18 08:46:00) |
146. トップガン マーヴェリック
トム・クルーズがトム・クルーズであることを貫き通したことが、また一つアメージングなエンターテイメントの傑作を生み出したのだと思う。 そう断言してしまっていいくらい、本作にはトム・クルーズという“映画人”の生き様が凝縮されている。 そしてそれは、世界中のすべての映画ファンにとって、幸福で、最高な「映画体験」をもたらしていると思える。 1986年のオリジナルから36年、多くの映画ファンが続編を待ち望んでいたと言うが、実のところ個人的な期待感は極めて小さかった。 なぜなら36年前のあの“戦闘機映画”が、それほど良い映画だとは思っていなかったからだ。 実際に鑑賞したのは、僕自身が20代前半の頃だったと思う。画面に映る主演俳優の若々しさを興味深く追いつつも、作品全体の仕上がりに“浅さ”を感じてしまい、あまり感動を覚えなかった。 アクション映画としても、その時点で公開年が20年近く前の映画に対して興奮し得る要素はあまりなく、割とありふれた青春映画、もしくはスポーツ映画を観ている感覚だったと思う。 したがって、この続編の制作の遅れやコロナ禍による度重なる公開延期の報を聞いても、特に残念に思うことも無かった。他の多くの大作映画と同様に、劇場公開に至らず「配信」になっていたとしても、「ああそうなんだ」と思うに留まっただろう。 そんなふうな認識だった「映画ファン失格」の僕は、まずトム・クルーズに対して謝罪して、感謝の言葉を尽くさなければならない。 本作に限らず、どの映画製作においても、その規模が大きくなればなれるほど「妥協」という言葉は常につき纏う。どんなに高い志や理想があったとしても、完成して、公開されなければ映画というものの存在意義はそもそも生まれない。 その結果、「駄作」になってしまった映画は星の数ほどもある。 しかし本作は、トム・クルーズが、主演俳優として、そして映画プロデューサーとして、「妥協」を考え得る最小限に留め、映画人としてのエゴイズムを貫き通したからこそ、問答無用の「大傑作」として存在意義を得ているのだと思う。 本作の映画としてのあり方やストーリーテリングそのものは、極めてシンプルであり、王道的であり、ベタである。ただだからこそ、その豊潤なエンターテイメント力に圧倒される。 本物の戦闘機の轟音、俳優たちが本当に乗り込んでいるからこそ表現できる重力、そして本当に歳を重ねた主演俳優の円熟味と変わらぬスター性。 正真正銘の「リアル」が、この娯楽映画の真髄であろう。 36年ぶりに紡がれた“マーヴェリック”の物語は、彼自身が若者だった1986年の物語に新たな価値を与え、高めている。そこには映画世界の内外における「継承」が成されていて、そのことがまた多層なドラマティックを生み出している。 それはやはり、世界ナンバーワンの映画スター(映画バカ)がもたらした偉業であり、映画史における“ミラクル”だと思うのだ。 [映画館(字幕)] 10点(2022-06-12 17:06:13)(良:3票) |
147. 犬王
時代と怨念を超えた語られぬ者たちの狂騒曲。 この国が誇る最古の舞台芸術である「能楽(猿楽)」をメインフィールドにして、時代に埋もれた能楽師と名も無き琵琶法師の友情と狂気が、縦横無尽のアニメーション表現の中で描きつけられている。 まあ何と言っても、湯浅政明による変幻自在のアニメーション世界の中で、松本大洋が描き出したキャラクターたちが、自由闊達に舞い、歌い、乱れる様が凄い。 この二人のコラボレーションといえば、「ピンポン THE ANIMATION」が記憶に鮮烈に刻まれているが、松本大洋の独特な描線で生み出されたキャラクターたちを、その性質を損なうことなく躍動させることにおいて、湯浅政明のクリエイティブは極めて的確で、文字通り“息を吹き込む”ことに成功している。 原作者は別にあるようだが、時代に対する反逆心溢れる二人の主人公が、己の才能とアイデンティティを証明するために共鳴する様は、過去の松本大洋原作漫画に共通するモチーフだった。「ピンポン」の“ペコ”と“スマイル”しかり、「鉄コン筋クリート」の“クロ”と“シロ”しかり。 そういう点でも、この原作のキャラクター創造を松本大洋が担ったことはとても的確だったと思える。 “平家物語×ロックフェスティバル”とでも言うべきミュージカルアニメーションの映像世界はイマジネーションに溢れる。 時代や文化、人々の感性をも超越して混じり合ったその世界観が、独創的な「芸術」を生み出していることは間違いない。 が、しかし、その一方でエンターテイメントとしてやや“独りよがり”になってしまっている部分もなくはない。 室町の京都で“ロック”が奏でられる事自体は斬新だけれど、我々現代人にとってそれはあまりにも普遍的な音楽なわけで、その描写そのものを肝とするには物語の推進力としてやや弱さを感じてしまった。琵琶法師の主人公が路上バンドよろしく大衆を煽る様が延々と繰り広げられるシーン等、間延びしてしまったことは否めない。 本作にとって音楽描写は「主題」というべきもので不可欠なものだけれど、作品全体のストーリーテリングの中で用いるポイントをもっと絞ってよかったのではないかと思う。 代わりに、主人公たちをはじめとするキャラクターたちの心理描写をもっとディープに掘り下げた方が、音楽描写によるエモーショナルが更に高まったのではないかと思える。 そういうことを踏まえると、叶うことならば、松本大洋による漫画化作品も読んでみたくなる。 とはいえ、「異形」そのものの姿形で生まれ落ちた“犬王”を禍々しさと愛着を併せ持つキャラクターとしてクリエイトし、時代を超えた「音楽」の中で舞い踊らせ、作品内外の“観客”を魅了したことは、「見事」の一言に尽きる。 [映画館(邦画)] 8点(2022-06-05 22:37:45)(良:1票) |
148. 孤狼の血 LEVEL2
《ネタバレ》 前作「孤狼の血」は、現在の“ヌルい”娯楽映画が蔓延るこの国の映画界において、確実なカウンターパンチとなり得る“アツい”作品であったことは間違いない。 血と脂汗が入り混じって匂い立ってくるような暴力性とその熱量は、往年の大傑作「仁義なき戦い」をはじめとする東映のジャンル映画を彷彿とさせた。 昭和臭漂う血生臭い映画世界は、平成という時代の末期において、時代を越えて逆に新鮮で、センセーショナルだったと思う。 前作公開時点で決定していたこの続編に対しても期待感はひとしおだったけれど、どうなのだろう?という危惧もあった。それはやはり、前作で絶対的な主人公であり物語の中核であった“大神”の不在(死亡)によるところが大きい。 演じた役所広司の存在感の大きさもあり、あのキャラクターが不在で、果たしてこの映画世界のテンションが保持されるものだろうかという不安が拭えなかった。 だがしかし、結果的にはそういった危惧は杞憂に終わったと言っていい。 役所広司の跡を文字通り引き継いだ松坂桃李が主演俳優として気を吐き、新たな敵役として登場した鈴木亮平が圧倒的な存在感を放っていたからだ。 両者は終始敵対するキャラクターでありながらも、ストーリー展開と共に己に孕んだ狂気を相互に高め合い、最終局面で爆発させる。 そのキャラクター描写とストーリーテリングは、現実離れしていて殆どファンタジー。全くもって常軌を逸しているけれど、それをまかり通す映画的エネルギーに溢れていた。 特に鈴木亮平が演じた“上林”のキャラクター造形は凄まじく、凶悪性、残虐性を超越したその「絶対悪」ぶりは、国内映画において近年稀にみるヴィランを作り上げており、松坂桃李演じる日岡と正対するもう一人の主人公としてキャラクター性を高めていたと思う。 主人公二人の狂気と凶悪に引き寄せられるかのように、その他のキャラクターもみな悪人揃い。言うなれば“狂気乱舞”の愚かな人間模様が、本作に相応しい娯楽性を生んでいた。 その中でも特に印象的なのは、“或る夫婦”役として登場する中村梅雀と宮崎美子。中村梅雀は2時間サスペンスの「信濃のコロンボ」シリーズでの刑事役そのままの暢気な風貌で登場するが、そのイメージ操作こそがまさに確信犯的であった。 彼らが孕む真の悪と、闇。劇中、中村梅雀演じる瀬島自身の台詞に表されていた通り、「悪意」の無い「悪」こそが最も始末が悪いということ。 両目を自らの指で圧し潰すという猟奇性極まる殺人を繰り返す鈴木亮平よりも、手料理の味見をしながら“味付けに満足したかのように”微笑む宮崎美子の方が、実は一番恐ろしい。 無論、完璧な映画ではない。 この映画における最たるウィークポイントは、女性キャラがあまり魅力的ではないということだろう。 これは前作における最大のマイナス要因でもあったが、どうやらこの監督は、男性俳優に対しては突っ切った演技指導ができる反面、女優に対する演出が大人し過ぎるようだ。 この手のジャンル映画において、濡れ場や、シンプルな「裸」描写は必須だと思うのだが、それが殆ど無いというのはいただけない。 乃木坂を卒業したばかりの西野七瀬を脱がせろ!とは言わないけれど、あのような役柄である以上、もう少し踏み込んだ演出は必要不可欠だったと思う。西野自身、求められればそれに応える覚悟はあった筈だ。 どうしても初々しいヒロインに対する演出が無理ならば、かたせ梨乃御大に“一肌”脱いでもらうくらいの心意気は、監督側に見せてほしかった、と、思うのだ。 [インターネット(邦画)] 8点(2022-05-29 00:29:07)(笑:1票) |
149. サイダーのように言葉が湧き上がる
ヘッドホンは屋内外問わず必携だし、マスクも現在の感染症対策に関係なく実は一年中していたい。 特に明確なコンプレックスがあるわけではないけれど、世の中に対してささやかな“ガード”をすることで、心を落ち着かせることができる。 そのことが他人とのコミュニケーション不足に至ってしまっていることも否めないけれど、この社会の中で折り合いをつけるためにはもはや不可欠な「対策」だとも思う。 そうそれは、僕自身の性質だ。 そういうわけで、本作の主人公二人が抱えるコンプレックスとその心情に対しては、最初から共感せずにはいられなかった。 思春期特有のナイーブさも重なり、すべてをさらけ出せない二人は、それでも自分自身の存在証明のために、俳句を詠み、ライブ配信をしている。 アニメ作品としては特に劇的なドラマが繰り広げられるわけでもなく、ファンタジックな事象が巻き起こるわけでもない。とある地方都市の大型ショッピングモールを舞台にしたミニマムなボーイ・ミーツ・ガールだった。 劇的ではないストーリー展開が、むしろ逆に主人公たちをはじめとする登場人物たちの何気ない心情を浮き彫りにし、愛らしい人間模様を表現していたのだと思える。 大型ショッピングモールがデンと構える風景も、もはや日本中のあちこちで見られるありふれた光景だろうけれど、ヴィヴィットでポップな背景のグラフィックデザインが、彼らにとって特別な「今この瞬間」を切り取っていたと思う。 キャラクター造形は総じてステレオタイプだとも言えるし、ストーリーテリングにも安直さやご都合主義が見え隠れすることは否めない。 それでも、“ガード”をすることしかできなかった少年少女が、自分自身の大切な思いを、行動と言葉で、相手に伝える様にはエモーショナルを感じずにはいられない。 そして、“アテ書き”としか思えない杉咲花のキャスティングが間違いなかった。 青臭く つたない言葉 ぼくはすき [インターネット(邦画)] 8点(2022-05-21 00:39:12)(良:1票) |
150. 流浪の月
登場する人間たちの運命に対して同情はすれど、共感はできない。安直に共感できるほど、彼らがはらむ心情と境遇はシンプルではないし、他人が理解できるものではないと思う。 だからこそ彼らは、この世界の奥底でもがき苦しみ、孤独を孤独で埋めざるを得なかった。 その様は、劇中に登場する壊れやすく美しいアンティークのグラスのようで、彼らは、自分があるべき場所を求めて、ひたすらに廻り廻ってゆく。 「怒り」以来、6年ぶりの李相日監督の最新作は、この監督らしい悍ましさと、儚さ、一抹の輝きを孕んだ人間の生々しさが描き出されていた。 綺麗事では済まされないその人間模様は、愚かしく、痛々しく、とても悲しい。 それ故に、この映画の空気感は常に不穏さと居心地の悪さを放ち続け、観ていると思わず逃げ出したくなる。 きっと、登場人物たちの言動や生き様を受け入れられず、心の底から嫌悪する人も多いだろう。 僕自身、主人公の二人を含めて、行動や発言に理解と理性が追いつかずに、拒否感を覚えてしまった描写が多々あった。 あの日あの時、あのような行動をしなければ、あのような発言をしなければ、彼らはもっと楽に、幸せに生きられたのではないか。 悲しく辛い運命の螺旋に、ただただ無抵抗に呑み込まれ、そこから抜け出すことを放棄しているようにすら見えてくる。 そういった思いは終始尽きず、それが彼らに対する無共感に繋がっているようにも感じる。 ただ、だからといって、本人ではない他者が、手前勝手な主観で彼らを否定することなんてできない。 「更紗は更紗だけのものだ」 という台詞にも表れているように、不幸も幸福も、それを決めるのは本人たちだけだ。 そう誰が何と思おうとも、「私はかわいそうな子じゃない」のだ。 その主人公たちの思いを、狂おしいまでの愚直さで描きつけたこの映画世界は、決して一側面からは否定も肯定もできない人間の心情を浮かび上がせていた。 演者においては、松坂桃李、広瀬すずの両主演がやはり素晴らしい。 この数年で主人公から脇役まで、各作品で印象的な役どころを演じ続ける松坂桃李は、作品ごとに全く異なる人間性とそれに伴う表情、体躯を表現しており、俳優としての飛躍が著しい。本作でも、秘められた性愛と身体的苦悩との間で苦しみ抜く主人公を体現しきっていた。 一方、広瀬すず。彼女の女優としての天賦は、きらきらと光り輝く瞳と類稀な美貌の奥に広がる吸い込まれるような「闇」だ。李相日監督の前作「怒り」でもその「光」と「闇」を存分に引き出されていた彼女は、年数を重ねてさらなる深淵を見せつけていたと思う。(相変わらずこの監督は広瀬すずに容赦ない) 主人公二人の恋人役をそれぞれ演じる横浜流星、多部未華子も、キャリアにおける新境地と言える“汚れ役”を印象的に演じきっており、彼らの人生模様が重なることで、映画全体の重層感が増していた。 鑑賞後には一言では言い表せない「靄」が薄っすらと漂い続けるような感覚を覚える。一度観ただけでは、本作が表現する繊細な語り口のすべての汲み取りきれていないようにも思う。 そういう部分も含めて、“濃い”映画だったと思える。 [映画館(邦画)] 8点(2022-05-16 15:17:43)(良:1票) |
151. マトリックス レザレクションズ
《ネタバレ》 20年越しの「復活(Resurrections)」という名の「強制再起動」。 昨今90年代前後の大ヒット映画のリメイクや続編製作が連発される映画界において、本作もプロジェクトの発端そのものはその例に漏れるものではないだろう。 ただ、本作には、そういった現在の映画界に蔓延するネタ不足と、マンネリ化を超越して、「マトリックス」という映画世界そのものとそれがもたらした文化を俯瞰して再構築するという“メタ視点”と“反則技”が満ち溢れていた。 そこには、単なる“アイデア不足”にはとどまらない意欲と、本作単体としてのアイデンティティがあったと思う。 1999年と同じく、主人公ネオ(=アンダーソン)を演じるキアヌ・リーブスが、かつて「マトリックス」という大ヒットゲームを生み出した伝説的クリエイターとして登場し、ゲーム会社に囲われるようにして、惰性の日々を貪っているというメタ的設定がまず面白い。 マトリックストリロジーの顛末を経て、「救世主」としての“役割”を全うし、機械支配からの解放を促したはずの彼が、再び囚われの身になっているという状況が、何を表しているのか。 映画史の文脈を超えて、文化的、社会的な革命の象徴となった「マトリックス」という映画世界が生み出した価値は、何を生み出し、その後時代の変遷と共にどのような位置づけに変わっていってしまったのか。 そこには様々な要素と解釈が入り混じり、我々映画ファンを再び“鏡の世界”へと誘っていた。 週末の深夜、眠気と戦いながら動画配信サービスで一度観ただけでは、正直理解しきれない部分は多いし、正確な解釈をしきれていないことは我ながら明らかだ。 やっぱり出来栄えに訝しがることなく公開時に映画館で観るべきだった、と後悔は否定できない。 ただ一つ強く感じたことは、本作はオリジナルに引き続き監督を務めるラナ・ウォシャウスキー監督の極めてパーソナルな感情や心情、人生模様が如実に反映された作品として仕上がっていたということ。 マトリックストリロジーよって「自由」を掴み取ることの真意を文字通り革命的な映画世界の中で追求し、自分自身、映画人として、そして人間として、「自由」を追い続ける彼女の生き様とその強い思いが、この映画には満ち溢れている。 そう言うなれば本作は、「マトリックス」を生み出した一人であるウォシャウスキー監督だからこそ許されるセルフパロディであり、壮大な「個人映画」だったのではないかと思えるのだ。 1999年の「マトリックス」第一作のラストシーンを模した主人公たちの飛翔には、あの時と同じ高揚感を覚えた。 この後の続編がまた生み出されるのかは知らないけれど、時代が変わり、価値観が変わっても、「自由」を追求するための可能性は無限に広がり続ける。 [インターネット(字幕)] 8点(2022-05-16 00:33:06) |
152. シン・ウルトラマン
まず個人的な立ち位置から言うと、僕自身はいわゆる「ウルトラマン世代」ではなくて、再放送やソフトも含めてちゃんと「ウルトラマン」を観た記憶は殆どない。 特撮映画は大好きであり、ゴジラシリーズを始めとする東宝特撮映画は殆ど鑑賞してきたし、樋口真嗣が特撮監督を勤め上げた平成ガメラシリーズ(特に「G2」)も“崇拝レベル”で何度も観ている。 そんな趣向の者が、「ウルトラマン」に触れてこなかったというのは、自分自身不思議に思う。 本作「シン・ウルトラマン」の公開に先立ち、ベースとなる「ウルトラQ」や初代「ウルトラマン」のTVシリーズで“勉強”しておこうかとも思ったが、門外漢であるならば門外漢なりの楽しみ方もあるだろうと思い、予習なしで“ウルトラマンデビュー”してみることにした。 鑑賞後率直に思った感想は、良い意味でも悪い意味でも“ぶっ飛んだ”映画だったな、ということ。 それは「空想特撮映画」とこれ見よがしに掲げるこの作品の性質に相応しい、とは思った。 ただ、それと同時に、「これは映画として成功しているのか?」と、疑問とモヤモヤも存在していることに気づいた。 鑑賞から一夜明けて一個人として定まった結論は、「失敗作」だった。 決して駄作だとは言わないし、興味深い要素やユニークな表現も溢れた作品だったとは思うけれど、この映画がたどり着くべき姿はコレではなかったんじゃないかと思う。 前述の通り僕自身はウルトラマン世代ではなく、オリジナルシリーズもまともに観ていないので正確なことは言えないけれど、おそらくは「ウルトラマン愛」が各シーン、各描写、各台詞に散りばめられた作品なのだろう。 YouTubeの解説動画で聞きかじった限りでは、ストーリー展開においても、オリジナルシリーズの人気エピソードを軸にして構成されており、それらを未鑑賞の者としても、随所にオマージュやリスペクトが溢れているのであろうことは感じられた。 だが、それ以上の驚きやそれに伴うエモーショナルが感じられなかったというのが正直なところ。 この映画に携わった一流クリエイターたちにとっての“バイブル”とも言える「ウルトラマン」に対する尊敬と憧れ、あまりにも大きな「愛」が溢れ出る一方で、今この時代に「再誕」させるに当たってのテーマ性や価値を追求しきれていないように感じてしまった。 雑な言い方をしてしまえば、それはやはりやや一方的過ぎる「懐古主義」であり、僕のような門外漢や、今この時代の子どもたちにとっては“楽しみづらいモノ”になってしまっていると思える。 また、冒頭のタイトルクレジットでも表現されている通り、本作は「シン・ゴジラ」の同じ世界線ではないものの、一つの並行世界が舞台になっていると思われ、登場するキャラクターや日本政府、社会環境など類似する要素が多い。 それ故にどうしても比較をしてしまうが、本作は圧倒的に予算不足が露呈している。 それは、脇役・端役を含めた出演者数や場面数の少なさからも明らかだが、一番問題なのは、そのことが“映画づくり”そのもののクオリティ低下に繋がってしまっていることだろう。 ドラマシーンのカメラワークが一辺倒だったり、意図的にiPhoneで撮影されたカットが単にチープな映像に見えてしまっているなど、予算の少なさが「丁寧さ」の低減に影響してしまっていることは致命的だ。 予算がないならそれなりに映像作品としてのあり方自体を見直すべきだったのではないかと思う。 過去作のエピソードを連ねて一つの映画としてやや強引にストーリー展開をするくらいなら、オリジナルと同様にドラマシリーズでも良かったのではないか。 それこそ、NetflixやAmazon Prime等で、全6話くらいの構成の配信作品にした方が、潤沢な制作費も得られやすく、より尖った作品に仕上がっていたのではないかと、映画ファンとしては邪な思いも生まれてしまう。 一説によると、「監督」として現場を取り仕切った樋口真嗣と、「総監修」として作品全体の指揮権を持った庵野秀明との間で、「責任」のバランスが取れていなかったのではないかとも聞く。 両者ともバイブル「ウルトラマン」に対する「愛」は強く揺るがないものだったはずだ。それ故に、その表現方法において乖離も生じてしまったのだろう。 「愛」を語るに当たって、やっぱり人任せにしてはいけないし、少しでも思いが離れてしまったその表現は、ちゃんと伝わることはないなと思う。 少なくとも、僕にとっては、ウルトラマンの一連の活躍や、身を挺して孤軍奮闘する長澤まさみよりも、「赤坂さん(仮名)」の登場が最たる激アツポイントだった時点で、「シン・ゴジラ」に遠く及ばない作品であったことは間違いない。 [映画館(邦画)] 5点(2022-05-15 00:31:03) |
153. ドクター・ストレンジ/マルチバース・オブ・マッドネス
《ネタバレ》 ある程度「覚悟」はしていたつもりだったけれど、想像を越えた“狂気のるつぼ”を目の当たりにして、正直面食らってしまった。 タイトルが指し示していた通り、“マルチバース”の多層世界が折り重なると同時に、あらゆる表現で具現化された狂気性そのものが入り混じり、特異な映画世界を構築していた。 一瞬、これが“MCU”の最新作であることを見失ってしまうくらいに、この映画における狂気と怪奇、そして恐怖は振り切っていたと思える。 そこには、これまた予想以上に、監督を務めたサム・ライミの“風味”が充満していた。 先日、サム・ライミ版「スパイダーマン2」を再鑑賞した時も感じたが、やはり芸術的なまでにおぞましい恐怖描写こそがこの名匠の真骨頂であり、どんなシリーズ映画であろうともその“サム・ライ味”が抑えられることはないのだろう。 シーン的に白眉だったのは、やはりダークサイドに完堕ちしてしまったワンダことスカーレット・ウィッチの恐怖シーン。 満を持して特別出演した“イルミナティ”の面々を一蹴(惨殺)した挙げ句、逃亡するストレンジたちを執拗に追走してくるシーンは、まさにホラー映画そのものだった。 その他にも、古楽器から奏でられる音楽を具現化したストレンジ同士のバトルシーンや、ゾンビストレンジによる“死霊のはらわた”全開の怨霊大作戦、全編に渡ってゴシックホラー感満載のヴィンテージライクなカメラワークなど、やっぱりこの映画は、MCU映画である以上に、「ドクター・ストレンジ」の続編である以上に、“サム・ライミの映画”だった。 一方、個人的には、「アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン」以来のエリザベス・オルセン演じるワンダのファンなので、スカーレット・ウィッチとして完全に暗黒世界に陥ってしまった彼女の姿は悲しすぎて見てられなかった部分はある。 そして、こうなってしまった経緯を描いているらしいドラマシリーズの「ワンダヴィジョン」はやっぱり観ておくべきだったなと後悔は否定できない。 ただ、この映画の混沌は、そんな個人的趣向や、ストーリー上の不理解なんてどうでも良くなるくらいに常軌を逸している。 本作によって強引なまでにこじ開けられた世界観の拡大によって、今後のMCU作品が益々“マルチバース化”そして“マッドネス化”していくことは明らかだろう。 お決まりのエンドクレジットでは、まさかのあのトップ女優のMCU初参戦確定! リアルに多層構造化し巨大化していくディズニーのビジネス戦略にまんまと取り込まれることも覚悟して、改めて“Disny+”の契約も検討せねば……。 [映画館(字幕)] 7点(2022-05-07 18:54:44) |
154. ボクたちはみんな大人になれなかった
昨年(2021年)暮れにティザームービーを観た時点で、“予感”はあった。 ただそれ故になかなか観られず、Netflixのマイリストに入ったまま数ヶ月。ようやく鑑賞。 結論として、“予感”の通りに、少なくとも自分にとっては「特別」にならざるを得ない映画だった。 40代半ばの主人公が辿ってきた二十数年間を遡ってつぶさに描き出された映画世界は、同じ年代、同じ時代を過ごしてきた者として、まさにタイムスリップしたような感覚に包み込まれる。 僕自身は、東京という街でずっと暮らしてきたわけでもなく、二十歳前後の数年間をあの街で過ごしただけだけれど、それでも、この映画の主人公と同じ時代にあの場所で感じた空気感を思い出し、希望、欲望、羨望、絶望、あらゆる感情をひっくるめた感覚が蘇ってくるようだった。 実際は、「絶望」なんて感じるよりも前に、僕は夢半ばであの場所から去ってしまったが、「もし」あのまま憧れと願望にしがみつき、留まっていたならば……と考えると、主人公が辿った人生模様とどこか重なるようで、正直心が乱れて落ち着かなかった。 映画を彩る環境や美術や衣装、小道具に至るまで、映し出される画面のディティールを追っていくだけでも懐かしく、感慨深い。 安いラブホテルを探した夜、シネマライズの行列、「スワロウテイル」のポスター、浅野忠信が表紙の雑誌「H」、“グリコ”の娘の娼婦役と歌声、野猿、BiSH……、この映画世界の「時代」に散りばめられたすべてが、堪らなくエモーショナルだった。 つらつらと懐古的なことを並べると、世代的にドンピシャの40代のおじさんがノスタルジーに浸るだけの映画のようにも聞こえてしまいそうだが、そうではない。(と思う) 本作は、「普通の人生」という普遍的な概念の中で、思い悩み、時にもがき、時に抗うすべての人間のための映画だったと思う。 人間誰しも「フツー」というフレーズに少なからず拒否感や嫌悪感を覚える時期があるものだ。 「自分は他人とは違う」「何かができるはず」「こんなはずじゃなかった」と、焦りや後悔は、人生を通じて常に付き纏う。 でも、結果的に、ほぼすべての人は、フツーに人生を送り、フツーにその終着を迎える。 そこには、諦めもあれば、妥協もあるだろう。そして、悲劇にもなろうし、幸福でもあろうと思う。 それが即ち「人生」だ。 気が付けば46歳になっていた主人公が、コロナ禍で静まり返る深夜の東京の街で、ふと昔を振り返り、そして気づいたことは、「フツー」であることを、無意識的に恐れ、拒絶し、ないがしろにし続けてきた反面、実は知らず識らずの内に受け入れてしまっていた「現実」と、見過ごしていたその「真価」だったのだろう。 ラストシーンで主人公が発する「ホント、フツーだわ」という言葉には、過ぎ去ってしまった時間に対する後悔、「フツー」を直視することを避け続けてしまったことへの悔恨、そして、それらと同時に確実に存在していた自らの“フツーの人生”の“フツーの輝き”を愛おしむ思いに溢れていた。 「ホント、フツーだなあと思って」と悲しげに背を向けた最後の夜の彼女。 「うれしい時、悲しい気持ちになる」と涙を浮かべた最初の夜の彼女。 そこに、主人公が若かりし日に汲み取りきれなかった何かがあったのかもしれないし、無かったのかもしれない。 ボクたちはみんな大人に“なれなかった”のか、“ならなかった”のか、“なってしまった”のか、それとも……。鑑賞者一人ひとりの人生とその時の心情によって、その末尾は変わり続ける。 [インターネット(邦画)] 10点(2022-05-07 00:34:48)(良:1票) |
155. ベイビーわるきゅーれ
いつの時代も、“動ける”女優は魅力的で美しい。それは映画が「活動写真」と呼ばれた時代から娯楽的本質だと思う。 髙石あかりと伊澤彩織、主人公のJK殺し屋コンビを演じた二人の無名女優が、何をおいてもとても魅力的だった。 特に、圧倒的な体術を駆使して襲いくる男たちを凌駕する“まひろ”を演じた伊澤彩織は新時代の“アクション女優”として、この映画を観たすべての映画ファンの心を射抜いている。 「キングダム」「るろうに剣心」「G.I.ジョー」と日米の大作映画でメインキャストの“スタントダブル”を務めたという紛れもない一流スタントである経歴を踏まえたアクションの説得力と、朴訥としていてそれ故に瑞々しい存在感は唯一無二だった。 バイトの面接に落ちて、意気消沈のまま気だるそうにソファの背もたれ側からクルッと前回りして寝転がる。 そんなあまりにも何気ない1カットにこの女優の魅力が凝縮されていたように思う。 一方の髙石あかりも、特異なルックスと勘のいい動きや台詞回しに女優としての天賦の才の片鱗が溢れていた。 ビジュアル的にも、演じるキャラクター性としても正反対のアンバランスさが、逆説的に主人公コンビとして絶妙なバランス感を生んでいたと思える。 監督・脚本・編集を務める阪元裕吾の作品は、本作の前作の「ある用務員」を昨年観たけれど、映画作品としてのクオリティの低さに失笑を禁じ得なかった。 本作は、キャラクター設定こそ微妙に違えど、「ある用務員」にも登場したJK殺し屋コンビ主人公にしたスピンオフとも言える作品だが、クオリティと満足度は“爆上がり”している。 作品の世界観自体はほぼ同じユニバースと言え、雰囲気は共通していたが、演者のフィット感や、演出のディティールが段違いだったと思う。 主人公たちがバイト先に選んだメイドカフェのバイトリーダー的な先輩が貧乏で、コンビニのデカくて安いパンしか食べられない描写が秀逸だった。 めでたく続編製作が決定したようで、楽しみである。 [インターネット(邦画)] 8点(2022-05-05 21:54:36)(良:1票) |
156. 暴走パニック 大激突
いやはや、なんともトンデモナイ。 大胆で、猥雑で、非常識。時代を越えた昔の映画に対して、現在の倫理観と照らし合わせることはナンセンスだと思うが、あまりに自由で、あまりに奔放でエキサイティングな映画世界には、いまや「羨望」の眼差しを向けざるを得ない。 先日鑑賞した「狂った野獣」に続いての渡瀬恒彦主演作(同年製作)だったが、やっぱりこの時代のこのスター俳優の存在感と“アクション”は唯一無二であったろうことがギンギンに伝わってくる。 80年代生まれの者としては、渡瀬恒彦という俳優を認識した頃には、すでにサスペンスドラマに多数出演する好感度の高いテレビ俳優という印象が先行しており、渡哲也の実弟という立ち位置もあり俳優としてそれほど強いインパクトを感じたことはなかった。 しかし、この時代の彼の佇まいと雰囲気は、アクの強いダークヒーローであり、あらゆるアクションシーンを自分自身でこなしたという逸話も伝説的だ。 本作においても、決して正々堂々としたヒーローではなく、姑息さや残酷さも持ち合わせた犯罪者であるというキャラクター性が、ダークヒーローとしての存在感と哀愁を際立たせている。 そしてそこに「深作欣二」という巨大な劇薬が混ざり、映し出された映画世界は娯楽の混沌と化している。 中盤、本筋と外れたところで、或る変態医師のアブノーマルプレイがじっくりと映し出された時には、思わず「一体何を見せられているんだ」と困惑し呆然としてしまったが、それすらも最終的には娯楽の混沌の一要素としてまかり通してしまう圧倒的なエンターテイメント力にひれ伏すしか無かった。 クライマックスで待ち受けていたのは、タイトル通りの大暴走と、大パニック。 主人公のみならず、川谷拓三、室田日出男ら演じるこれまたアクの強い脇役たちや、通りすがりの端役に至るまで、それぞれが孕んでいた狂気性が爆発し、泥と爆音と共に入り乱れる様はまさしく阿鼻叫喚。 この時代を生きるすべての人間たちの鬱積が撒き散らされているようだった。 現代の最新カーアクション映画の筆頭といえばご存知「ワイルド・スピード」シリーズだが、50年近く前のニッポンに“元祖ワイルド・スピード”と呼ぶに相応しい映画が存在していたことを、ハリウッドの映画人たちは知っているだろうか。 あ、クエンティン・タランティーノ以外でね。 [インターネット(邦画)] 8点(2022-04-16 00:39:11) |
157. 映画ドラえもん のび太の宇宙小戦争 2021
「2021」という“未来”に蘇った「宇宙小戦争(リトルスターウォーズ)」。 オリジナル版の公開から36年余りという年月を経て、新時代の子どもたちに向けてリメイクされた本作は、稀代のSF漫画家による普遍的なジュブナイルと、“Sukoshi Fushigi”な空想科学の魂に満ち溢れていた。 オリジナル公開当時3〜4歳だった自分は、その時代から「ドラえもん」を愛し続け、今現在に至る。 食い入るようにスクリーンを見つめる我が子らと並んで観ながら、思わず目柱が熱くなったことは言うまでもない。 リメイクに当たって、キャラクター設定の追加やチューンナップ、ストーリー上の幾つかの改変ポイントはあったが、ストーリーテリングは概ねオリジナル作品に忠実で、改変による破綻や違和感は殆ど無かったと思う。 敢えて重箱の隅をつつくとすれば、冒頭の展開がやや駆け足だったため、ピリカ星の少年パピが10歳にして大統領であるというサプライズが薄れてしまっていたり、のび太たちが取り組んでいる特撮映画制作のくだりがほぼオープニングのみで処理されてしまうので、前フリとして弱く、中盤以降のスネ夫のミニチュアによる活躍が盛り上がりきらない印象を受けた。 ……などというイチャモンレベルの違和感はあったけれど、それは実際些末なことだろう。(東宝特撮映画風のオープニングクレジットはナイスだった!) むしろ、改変によってキャラクター造形やドラマ性が深まっている要素も確実にあり、総じて良いリメイクだったと思える。 少年大統領のパピは、原作及びオリジナル映画では、さすがに聖人君子過ぎて、完全無欠過ぎるキャラクターだったが、本作では姉ピイナを新登場させることで、垣間見える幼さや弱さも含めて少年らしい側面を描き出すことができていた。 また、悪役のドラコルルにおいても、単なる悪人キャラではなく、属するクーデーター軍の忠実な軍人としてのキャラクター性が強まっていた。 決して冷酷無比ではなく、心の奥底では絶対的支配者であるギルモア将軍の蛮行に虚無感を覚えていたり、むしろ敵対するパピに対して信頼感や敬意を孕んでいる節すらあった。そして、ラストでは部下の処遇を心配するなど人間的な深みが増していたと思う。 この敵側のキャラクター性の改変は、ストーリー全体のテーマにも影響しており、暴力による独裁や支配がいかに愚かで、虚しいものであるかを物語る上で、より効果的に機能していたと思う。 のび太たちが攻撃をする対象があくまでも「無人機」であることを念押しした台詞回しにも現代的な心配りと、憎しみの螺旋を断ち切ることへの強い思いを感じた。 そして、この「のび太の宇宙小戦争」が物語るそのテーマ性は、本作がコロナ禍による一年間の延期を経て、今この時期に公開されたことに運命的にリンクする。 世界は今、ロシアによるウクライナ侵攻に伴う「戦争」の只中だ。 本作の中で描き出されたシーンの数々は、現実世界で日々伝えられる映像と多々重なる。その深刻さは、事程左様に重くのしかかるようだった。 きっと今この瞬間の現実世界においても、ドラコルルのような悲しき軍人が虚しい暴力を望む望まざるに関わらず振るい続けているのだろう。 僕の横で、純粋な眼差しをスクリーンに向ける子どもたちにそんなことを意識させる必要はないけれど、僕たち大人たちは、この状況の意義を深く考えるべきだと思った。 [映画館(邦画)] 8点(2022-03-29 22:40:01)(良:1票) |
158. 狂った野獣(1976)
主演の渡瀬恒彦が、スター俳優であるにも関わらず、走行中のバイクからバスに飛び乗り、自ら運転する大型バスをド派手に横転させる、ノースタントで。 世の好事家たちの文献から聞き及んではいたけれど、この時代の渡瀬恒彦は“ヤバい”。その様は時に狂気的にも見え、故に俳優として魅力的だ。 或る深夜、ふいに古めの日本映画が観たくなり、時刻も深かったので上映時間が78分と短かった本作をサクッと鑑賞。 程よい雑多感や、荒々しい風俗描写がそのまま「娯楽」として“激突”してくるような芳しいエンターテイメントだった。 一台の路線バスに偶然乗り合わせた一般人と、悪党と、別の悪党。 それぞれが孕んでいた欲望と焦燥は、暴走するバスと同調するかのように行き場を見失い、破滅へと突き進む。 先に主演俳優の狂気的な破天荒ぶりに言及したが、この映画の登場人物たちは皆々狂っている。いや、結果的にそもそも人間がうちに秘めている狂気を抑えきれなくなったということかもしれない。 主演の渡瀬恒彦のみならず、脇役の俳優たちもみな個性的で印象的。 特に終始“小物感”を撒き散らし、衝撃的な死に様を見せる川谷拓三が見事。 [インターネット(邦画)] 7点(2022-03-27 00:30:27) |
159. バットマン・フォーエヴァー
個人的に初めて観た「バットマン」の映画は、本作の直接的な続編である「バットマン&ロビン Mr.フリーズの逆襲」だった。1997年に映画館で鑑賞したあの映画は、イロイロな意味でどうかしている作品で、当時高校一年生だった僕に、偏ったバットマンのイメージを植え付けてしまった。 その結果、前作であった本作はおろか、ティム・バートン版の2作品も観ることなく、2005年のクリストファー・ノーラン監督作「バットマン ビギンズ」が公開されるまでバットマンに触れることは無かった。 そして更に時が経ち、ティム・バートン版に触れつつ、ノーラン監督の三部作を終え、ベン・アフレックがバットマンとなった「ジャスティス・リーグ」を経て、今年また新たなバットマン映画が公開される矢先に、ようやくこの「フォーエバー」の鑑賞に至った。“Mr.フリーズ”から実に25年、無駄に感慨深い。 僕の中では“残された”バットマン映画だったが、率直な感想としては、今まで鑑賞に至らなかったことを少し後悔するくらいに、魅力的な娯楽映画だったと思う。 クリストファー・ノーランが描いたバットマンや、サム・ライミが描いたスパイダーマン以降のアメコミ映画ファンとしては、良い意味でも悪い意味でも極めて“マンガ的”な本作のテイストは、一周回ってフレッシュで、ヒーロー映画の原点を観たような感覚さえ覚える。 監督こそ異なるが、一応はティム・バートン版からの流れを汲むシリーズ3作目という位置づけもあり、余計な説明描写は差っ引いて、冒頭からいきなりメインのヴィランとの攻防を描く展開が、アクセル全開という感じで小気味いい。 各アクションシーンを彩るケレン味たっぷりの美術や装飾も90年代のヒーロー映画の味わいを象徴しており、シンプルに観ていて楽しい。 そしてなんと言っても、キャスト陣がみな良かったと思う。 先ずは、トミー・リー・ジョーンズ&ジム・キャリーが演じるヴィランズのイカれっぷりがサイアクでサイコー。それぞれのキャラクターがヴィランに落ちた経緯やバックグラウンドなんてそこそこにして、名優二人が嬉々として狂人を演じるさまが素晴らしかった。 ヒロインを演じるのは、こちらも大女優ニコール・キッドマン。当時既にスター俳優だったとは思うが、その風貌はまだまだ瑞々しく、麗しいヒロイン像を体現していたと思う。 そして、個人的に最も不安視していたのは、バットマン役に抜擢されたヴァル・キルマーだったけれど、想像以上にバットマン=ブルース・ウェインというキャラクターにマッチしていたと思う。 本作では、ヒーローとヒロインのキスシーンが繰り返し映し出されるけれど、それも納得のセクシーな口元が印象的だった。何故次作の「Mr.フリーズの逆襲」ではバットマン役が交代になったのか、少々疑問が残る。 と、想定外の満足感と共に鑑賞。この流れで「Mr.フリーズの逆襲」も25年ぶりに観てみようかな。 [インターネット(字幕)] 7点(2022-03-13 01:07:03) |
160. キングスマン: ファースト・エージェント
元々、僕はこの人気シリーズとは“相性”が良くないらしく、過去2作とも割と期待感高く劇場鑑賞してきたけれど、いずれも悪ノリの面白さよりも、露悪的な表現によるストーリーの破綻の方に嫌悪感を感じてしまい、全くハマることが出来なかった。 マシュー・ヴォーン監督の出世作、「キック・アス」や「X-MEN:ファースト・ジェネレーション」は傑作だと思っているだけに、監督の個人趣味に突っ走った本シリーズは、余程自分の趣味に合わないのだろうと思う。 そんな経緯なので、「キングスマン」の“エピソード0”として製作されたこの最新作に対しても、特に期待感は無く、度重なる公開延期に対してもほぼスルー状態だった。 某配信サービスの最新作にリリースされたので取り合えず鑑賞してみたが、率直な感想としては、可もなく不可もなくといったところか。 過去2作に比べると、悪趣味な暴走ぶりは鳴りを潜めており、“見やすい”娯楽映画だとは思う。ただし、その代わりに特筆すべきエンターテイメント性が無いことも事実だろう。 特に物足りなかったのは、前作までの(個人的には)唯一にして最大のハイライトだったギミックの娯楽性がほぼ皆無だったことだ。 時代設定が第一次世界大戦前夜であるから、ハイテク機能を隠し持ったギミック満載のスパイ・ガジェットの登場は無理だったろうけれど、前二作に登場したガジェットの「原型」となった“秘密道具”くらいは駆使してほしかった。 ストーリーテリングや、登場人物の言動においても、説得力に欠ける点が多く、どうにも映画世界に入り込むことができなかった。 レイフ・ファインズ演じる主人公は、無論“THE紳士”なたたずまいでソレっぽいけれど、実際のところ彼の行動は行き当たりばったりなことが多く、決して理知的でもなければ、紳士的でもなかった。 挙句、何よりも大切な家族や友人たちをことごとく失くしてしまうわけだから、やはりヒーローとしての魅力や説得力に欠けてしまっていることは否めない。 やはりマシュー・ヴォーン監督においては、むしろ制約の多いハリウッド大作の中で、しがらみに雁字搦めになりながら、それでもギリギリの範囲で“悪趣味”を爆発させるくらいの方が、彼のセンスが際立つのではないか。 彼の出世作がいずれもアメコミ作品であることは言わずもがなだし、同じくアクの強い映画監督であるジェームズ・ガン監督が、MCUやDCのアメコミヒーロー映画で傑作を連発していることからも、進むべき道は明らかだと思うけれど。 [インターネット(字幕)] 5点(2022-02-27 00:40:36) |