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鉄腕麗人さんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 2593
性別 男性
ホームページ https://tkl21.com
年齢 43歳
メールアドレス tkl1121@gj8.so-net.ne.jp
自己紹介 「自分が好きな映画が、良い映画」だと思います。
映画の評価はあくまで主観的なもので、それ以上でもそれ以下でもないと思います。

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301.  映画ドラえもん 新・のび太と鉄人兵団 はばたけ 天使たち
「じゃあ見たことのある回路に直しちゃえば?」 と、のび太に促され、ドラえもんは敵対するロボットの電子頭脳を無理やりに改造する。 “ジュド”という名前だったその電子頭脳は、その後うんともすんとも言わなくなり、ドラえもんたちの“従順な味方”となる。   これは、今作のオリジナルである1986年公開の映画「ドラえもん のび太と鉄人兵団」の1シーンだ。 当時5、6歳だった僕は、この作品を何度観たか分からない。他のドラえもん映画と同様に、VHSにダビングされたものを繰り返し観ていた。「のび太と鉄人兵団」は、数あるドラえもん映画の中でも、屈指の傑作だと今でも思っている。   ただ、今改めて前述のシーンを振り返ってみると、なんて“残酷”なシーンだったのだろうと気づく。 地球人を奴隷化しようと画策する侵略者だとはいえ、文字通り“手も足も出ない”相手に対して、有無も言わさず脳改造を施すくだりは、あまりに非人道的もとい“非ロボ道的”だ。 子どもだったとはいえ、その展開を当たり前の様に看過し、今現在に至るまで、無邪気に「正義」と疑わなかった自分自身の浅はかさを今更ながら感じる。   その“気づき”を与えてくれたのもまた「のび太と鉄人兵団」だったわけだ。 リメイクである今作でも同様のシーンが展開される。 しかし、「改造しちゃえ」と言うスネ夫に対し、のび太が「それは残酷だ」と明確に否定するシーンに“改変”されている。 そのシーンを目の当たりにして、僕は初めて30年前の映画作品の確固たる「弱点」に気がつくことができた。 この点一つを取っても、このリメイク作の意義と価値はあまりに大きいと思える。   自分自身の子どもたちがドラえもん映画を観始めるようになったのをきっかけに、長年スルーしていた新世代のドラえもん映画を観るようになった。 重度の“F先生”信者なので、自身が子どもの頃に慣れ親しんだ“大長編シリーズ”のリメイク作に対しては特に敬遠気味だったのだが、昨年「のび太の恐竜2006」を鑑賞して、その“食わず嫌い”は一気に吹き飛んだ。 「のび太の恐竜2006」、「のび太の新魔界大冒険」、そしてこの「新・のび太と鉄人兵団」と観てきたが、どれもF先生の原作をリスペクトした上で、現在の価値観を踏まえた弱点を見極め、真摯に改変に挑戦する姿勢が素晴らしいと思う。   無論、藤子・F・不二雄を信奉する者として、リメイク作に全く不満が無いわけではない。 今作にしても、スネ夫所有の“ミクロス”の露出が、新しいキャラクター設定に伴い大幅に減少してしまっていることなどは決して小さくないマイナス要素ではある。 それに“改変”されているとはいえ、突き詰めれば倫理的にスルーできないストーリー展開上の強引な要素も残っている。   だがしかし、前述の“気づき”を筆頭に、オールドファンをも認めざるを得ないリメイクの意義をしっかりと示し、今の子どもたちに向けて新しい「鉄人兵団」を公開する価値は、とても大きいと思う。それはいくつかのマイナス要素など補ってあまりあるものだ。   リルルとの別れに号泣し、スーパーコアラッコのパズルをするドラえもんに萌える。ドラえもんファンとしても、このリメイク作の仕上がりは申し分ない。
[CS・衛星(邦画)] 8点(2019-01-14 17:43:54)
302.  ボーダーライン: ソルジャーズ・デイ
「面白え」と、飾りのない満足感がじわじわと滲み出てくる。 善悪の境界線など遠く通り越して、虚無的な憎しみの螺旋の中で争う様には、この世界の愚かさの極みが溢れかえっていた。 この映画世界で描かれていることが、どれだけリアルに近いのかは判別できないが、おそらく現実にはもっと陰惨で、絶望的な事実が、無慈悲に渦巻いているのではないかと思う。 現実世界の闇を根底に据え、その闇の中で生きざるを得ない人間たちの苦闘を、前作同様映画的な娯楽性もしっかりと加味しながら描き出す見事な映画だ。  前作「ボーダーライン」をようやく鑑賞した翌日に、公開中のこの続編を観たが、立て続けに観たことで、より一層二作の連なりと、描き出される「視点」の明確な違いを顕著に感じることができたと思える。 前作では、エミリー・ブラント演じる主人公を敢えて“部外者”の立ち位置のままストーリー展開をさせることで、正義と悪、この世界の光と闇の境界線を如実に表していた。 この続編では主人公の視点を、“部外者”から“当事者”にチェンジすることで、前作で朧気にだったこの世界の闇の本質がよりくっきりと映し出される。 同時に、前作では正義と悪の両者をコントロールしているように見えた“当事者”であるCIAエージェントらも、実のところ極めて混沌とした血みどろの境界線上を進まざるを得ない状況であることが描き出され、行き場のない絶望感を叩きつけられる。  キャストにおいては、前作に続きベニチオ・デル・トロの存在感が圧倒的だ。 前作においても、実は物語の真の主人公はベニチオ・デル・トロが演じるアレハンドロだったわけだが、このキャラクターが抱える憎しみと怒りと悲しみを全身で体現する演技が素晴らしい。 これ以上ない嵌り役を完璧に演じきっていることで、彼は名優として一つの高みに登ったと思える。  脚本を担うテイラー・シェリダンによると、どうやら三部作構想のようである。 文字通り死の淵から甦った“Sicario=殺し屋”は、果てしない憎しみの螺旋に終着を見いだせるのか。 完結編の製作を心して待ちたい。
[映画館(字幕)] 9点(2019-01-13 21:15:35)
303.  ボーダーライン(2015)
公開時から観よう観ようと思いつつタイミングを逃してしまい、各種配信サービスにおいてもウォッチリストに必ず入れながら観られていなかった今作を、続編公開のタイミングでようやく鑑賞。 評判通りに物凄く面白かった。さっさと観ておけば良かったと只々後悔。  この映画を一言で表現するならば、「闇の淵」という感じだろうか。 邦題「ボーダーライン」が表す通り、エミリー・ブラント演じる主人公は、メキシコ麻薬カルテルを枢軸とした巨悪と、そこに渦巻く絶望的な「闇」に呑み込まれるか否かの“境界線上”に立たされる。 FBI捜査官の主人公は、得体の知れない強大な闇の一端に触れ、覗き込もうとする程に、その深さに絶望し、自らが信じ命を懸けててきた「正義」がいかに表層的なものだったかということを突きつけられる。  エミリー・ブラントは、“こちら側”の代表として、この世界の“向こう側”に巣食う悪の理を目の当たりにするFBI捜査官を熱演している。相変わらず、この女優は芯の強い女性像を演じきることに長けていて、今作においても魅力的な人物像を体現している。 ただし、この映画が面白い最大のポイントは、その主演女優が演じる魅力的な主人公が、ストーリーテリングの中心に存在していないということだ。 主人公は終始、知り得なかった別世界の闇の存在を感じ続けはするけれど、結果的にその深層に入り込むことを許されない。あくまでも“部外者”のまま、物語は進行し、終幕する。 では、この映画世界の真の主人公は誰であり、真の闇の中で生き続けている人物は誰だったのか。その巧みな映画的構図と、研ぎ澄まされたストーリーテリングが、上質なリアリティとエンターテイメント性を生み出しており、圧巻だった。 ドゥニ・ヴィルヌーブ監督による、絶望的なまでに美しく、神々しい映像感覚と音楽も素晴らしかった。  原題「Sicario」はスペイン語で「殺し屋」の意。 闇の淵に主人公を置き去りにし、一つの目的を果たした“殺し屋”は、闇の更に奥深くに突き進んでいく。
[インターネット(字幕)] 9点(2019-01-12 23:58:25)
304.  シュガー・ラッシュ:オンライン
2019年の劇場鑑賞一発目として、わが子二人と共に映画館に足を運んだ。 キュートで、エキサイティングで、ユーモラスで、感動的な、お正月に子どもと観るに相応しい映画に仕上がっており、映画ファンとしても、父親としても、満足度は高かった。   世評は意外と分散している様子だが、個人的には、続編としての“大風呂敷”の広げ方を、舞台設定の必然性、物語構造の妥当性、そして王道的なテーマ性としても、等しく真っ当に纏めていると思う。   一方で、賛否が分かれている理由もよく分かる。 確かに、6年前の前作をよくよく思い返してみると、肝心要の主人公コンビのキャラ設定がぶれてしまっていることは否めない。 そして、そのことが前作で描き出されたテーマ性をも崩さんばかりに侵食してしまっていることは、特に前作ファンにとっては残念すぎる要素だったろうと思う。   ただし、そういう作品世界の根幹を揺るがしかねないストーリーテリングの脆さを度外視してでも楽しむべき要素がこの映画には溢れていて、そういう映画ファン、ディズニーファン向けの小ネタやメタ要素を見つけていくだけで、只々楽しい。 言わずもがな、歴代ディズニープリンセスが勢揃いした“楽屋ネタ”はアガらずにはいられなかった。  若干空気感の違うメリダに対して、アナが「あの子だけスタジオが違うの」とコソコソ言うシーンでは劇場で一人吹き出してしまったし、モアナが立ち上げた水柱を、アリエルが泳ぎ登り、エルサが凍らせて滑り降りてくる等々の助太刀シーンではわが子を差し置いてはしゃいでしまった。     とはいえ、そういった小ネタがハイライトとして先行してしまっていることからも、作品の質として前作を越えていないことは認めざるを得ない。 果てしないインターネット世界を描き出した描写も、よく造り込まれてはいるけれど、スピルバーグが「レディ・プレイヤー1」を公開した直後のタイミングでは、レース描写も相まって、どうしても二番煎じ感を拭えない。 それに2時間近い上映時間は、子どもには少々長過ぎたようだった。(4歳の息子には特に)。     それでもね、この映画が自分の子どもと初めて映画館で観たディズニー映画であることは事実であるし、お正月の良い思い出として残り続けるだろうと思うのだ。
[映画館(吹替)] 7点(2019-01-05 01:23:28)
305.  EAST MEETS WEST
三が日の最終日、正月らしく国産の芳醇な娯楽を堪能できる映画を観ようと思い、この岡本喜八作品をチョイス。 数多の名作の中で、今作の評価が高くないことは認識していたけれど、日本映画史が誇る稀代の大巨匠による痛快な娯楽性を楽しめるのではないかと期待した。 結果、全く面白くなかったとは言わないけれど、世間の評価に違わず、かなり「微妙」な映画であることは否めない。   時代は幕末、米国から開国を迫られた幕府の使節団の中に密命を受け潜り込んでいた攘夷派の水戸浪士が主人公。 真田広之演じる脱藩浪士が、アメリカ西部に降り立ち、自身の使命と運命に挟まれながら奮闘する。 即ち、サムライとガンマンとニンジャによる夢の攻防戦を娯楽色豊かに描き出すことが最大のコンセプトの映画企画だったのだと思う。 実際、その通りの映画に仕上がってはいるのだが、正直言って全編通して上手くいっていない。   先ず、主人公の立ち位置が冒頭からいまひとつ確立されていないのが気になる。 彼が、どういうバックグラウンドを持っていて、どれ程の使命感を持って使節団の中に潜り込んでいたのかが、極めて曖昧なままストーリーは展開されるので、一つ一つの言動に厚みを感じることが出来ず、故に熱さも感じない。 「用心棒」のような主人公の流浪感を狙っていたのかもしれないが、それを表現するには全体的な演出が雑過ぎたと思うし、主演俳優のキャリア的にも浅かったのではないかと思える。   個人的に最大の雑音に感じてしまったのは、竹中直人演じる忍者が出自の下僕の存在。 演技プラン自体は、今尚続くお決まりの「竹中直人」そのものなので、彼のパフォーマンス自体を非難すべきではないと思うが、それを是とし、全編通してまかり通させてしまった演出には物凄く疑問が残る。 前述の通り、主人公の人物描写に深みが欠けているため、この映画は文字通り終始“精力的”にはしゃぎ回る竹中直人演じる“為次郎=トミー”のドタバタコメディ映画になってしまっている。   クライマックスの対決シーンも、展開的な面白さもなく、焦点も全く定まっていないため、盛り下がる。 恐らくは、「七人の侍」とそのリメイク作である「荒野の七人」をミックスしたような映画世界を見せたかった筈だ。 監督をはじめスタッフ的にも、キャスト陣的にも、本来それが可能な布陣だったと思うが、実現されなかったことは今更ながら残念だ。   ただし、二十数年の年月が経ち、国内外で素晴らしいキャリアを積み重ねてきた今現在の真田広之が、再び今作の主演を務めたならば、全く別物のクオリティの映画に生まれ変わるとは思う。 ストーリー上、主人公“上條=ジョー”はアメリカの地に留まっているわけだから、その後の彼の生き様を描いた続編の企画が持ち上がっても良いのではないかと思える。 年老いた“ジョー”のピンチに、ニンジャからインディアンに転身した“トミー”が大群を引き連れて助太刀する様を想像すると、馬鹿馬鹿しくもあるが、それはそれで胸熱だがな。
[インターネット(邦画)] 5点(2019-01-03 17:54:16)
306.  グランド・イリュージョン 見破られたトリック
原題にも用いられている「Now You See Me」とは、「見えてますね」というマジシャンの常套句の意。 この原題が表す通り、この娯楽映画シリーズは、“何が見えていて、何が見えていないのか”という“トリック”を全編に散りばめながらストーリーを展開させていく。 前作は、その思惑が100%達成できているとは言えないけれど、娯楽映画としての着想そのものはユニークだったし、実力派を揃えたキャスティングも功を奏し、及第点の仕上がりだったと思う。 あからさまな酷評も割りと多かったようだけれど、この映画が“マジック”を描いている以上、素直に騙され、それを楽しむことが、観客としてのマナーだとも思った。     なので、その続編である今作においても、間違っても「あんなマジックはあり得ない」などと、分かりきった難癖を付けるのは「無粋」というものだ。 映画のストーリー上で、どんなに荒唐無稽なマジックが展開されようとも、「わあ、すごい!」と楽しめる人は心ゆくまで楽しめばいいし、もしそれが出来ないような人は観なければいい。   と、少々傲慢な“予防線”を張ってしまった感も我ながら否めないけれど、個人的には前作同様に及第点の娯楽映画を堪能できた。 奇想天外で荒唐無稽な“マジック”を「武器」にした義賊チームによるケイパー映画として、作品のテイストを前作以上に振り切ったことで、より気兼ねなく楽しめる娯楽映画に仕上がっている。   ジェシー・アイゼンバーグをはじめ主要キャストは「黒幕」や「悪役」も含めて続投となっているため、安定感はあるものの、ストーリー展開的な驚きはそれ程得られない。(モーガン・フリーマンの役どころなどは、もはやベタ過ぎる)   ただ、だからこそ王道的な娯楽を楽しめるという、“ジャンル映画”としての面白味が生まれ始めているようにも見える。 これ以上の続編はおそらく蛇足になると思われるが、義賊チームにおける“チーム感”を更に高め、愛着を得られるようになるならば、例えば「ワイルド・スピード」のような大ヒットシリーズに成長するような「奇蹟」もありえなくは無い。
[インターネット(字幕)] 7点(2019-01-03 13:40:54)(良:1票)
307.  グレムリン
クリスマス・イブの夜。自身の子どもたちへのプレゼントを傍らに、彼らが寝静まるのを待ちつつ、クリスマスらしい映画を観ようと、今作の鑑賞に至る。 僕自身が3歳の頃の映画で、ポップアイコンとしての“ギズモ”の存在は勿論知っていたけれど、鑑賞自体は初めてだった。  良い意味でも悪い意味でも“ファミリー映画なんだろうな”というイメージだったが、想像以上に楽しめた。 時折ふいに展開されるエグいブラックユーモアを多分に孕んだ描写が特徴的で、徐々にクセになってくる。 映画世界全体のクオリティは決して完成したものではなく、雑多で大味だが、その決してただの“可愛らしいぬいぐるみ映画”ではない明確な「雑味」が、ファミリー層を越えて、ウケた理由なのだろう。  CG以前の時代らしいクリーチャーの味わい深い造形もさることながら、制限のある動きを表現するための巧みなカメラワークも見事。スティーヴン・スピルバーグをはじめ、名だたる映画人たちが集った作品だけの映画的な上手さを随所に感じられた。  恐怖に絶叫しながら、ものの1分程の間に3匹の凶悪グレムリンを惨殺したママが、実は色んな意味で最強だった。
[インターネット(字幕)] 7点(2018-12-24 23:58:08)(良:2票)
308.  パラノーマン ブライス・ホローの謎
「フランケンウィニー」と「グーニーズ」を掛け合わせたような娯楽性豊かなストップモーションアニメだったと思う。 丹精込めて作られているのであろう、主人公をはじめとするキャラクター造形と、その言動の一つ一つが味わい深く、この手法のアニメーションならではの魅力が滲み出ている。 今や飛ぶ鳥を落とす勢いのアニメーション制作会社ライカの力量を見せつける作品であることは間違いないだろう。  ただし、個人的には、お話的に通り一遍な印象を否めず、物語がクライマックスに突き進むほどに際立った新しさが無かったように思う。 ストップモーションアニメという伝統的な手法を、新たな技術力、表現力で追求しているからこそ、紡ぎ出される物語にも、新しい視点や価値観を加味してほしい。 そうすれば、このアニメーション制作会社の作品が、群雄割拠の業界内でトップに立つことも決して夢物語ではないだろう。
[インターネット(字幕)] 6点(2018-12-23 23:40:23)
309.  来る
結局、最も凶悪でおぞましい存在の極みは、お化けでも、妖怪でも、怨霊でもなく、「人間」であるということが、この物語の発端であり、着地でもあった。 その物語のテーマ性は、劇中の台詞の中にも登場するが、「ゲゲゲの鬼太郎」の時代から“ホラー”の中で延々と語られているものだろう。 ただし、そのある種普遍的なテーマ性を孕んだストーリーを、中島哲也監督が盤石のキャスト陣で映画化したならば、そりゃあ例によって“劇薬”的な映画になるに決まっている。  「下妻物語」以来のこの監督の作品のファンだ。特に直近の2作品「告白」、「渇き。」は、ただでさえ過激な原作世界に、中島監督ならではの悪意とインスピレーションを盛り込んだ映画づくりにより、クラクラしっぱなしの映画体験を食らわされた。 ビビットな映画的色彩の中で、醜く、滑稽な、人間の本質的な闇を浮き彫りにすることにこの監督は長けている。 そして、その人間描写をジメジメと陰鬱に描き出すのではなく、まるで悪魔が高笑いをしているかのような豪胆さ、即ち“エンターテイメント”を全面に打ち出してくる作風に、毎回ノックアウトを食らうのだ。  今作では、“ほぎわん”という恐怖の対象をある種のマクガフィン的にストーリーの主軸に据え、それに対峙する人間たちがそもそも抱えていたドロドロとした闇を、おぞましく、破滅的に描きつけている。 章立てされた群像劇的なストーリーテリングの中で、主要キャラクターを演じた俳優たちはみな素晴らしかったと思う。  妻夫木聡は、前作「渇き。」に引き続き、実に愚かなクソ野郎ぶりを見事に見せつけてくれる。 黒木華は、「リップヴァンウィンクルの花嫁」と似たようなキャラクターを演じているな〜と思わせておいて、一転、心の闇を爆発させる女性像を痛々しく体現する。 岡田准一は、もはや貫禄を帯びてきた俳優力で、途中登場ながら主人公としての存在感を放っていた。 松たか子、小松菜奈による中島映画歴代ダークヒロインコンビは、あまりにも魅力的な霊能者姉妹を演じ、彼女たちが再登場する続編を観たい!と思わせた。 青木崇高、柴田理恵をはじめとする脇役、端役の面々も、それぞれがキャラクターの存在感を放ち、映画世界をより重層的に彩っていたと思う。  と、総じて満足度の高い期待通りの映画であったことは間違いはない。 ただし、前述の過去2作と比べると、何か一抹の物足りなさが残っていることも否めない。 思うに、この監督と、このキャスト、そしてこのストーリーであれば、もっともっと弾け飛ばせれたのではないかと思える。 ラストの「対決」に至るまでの盛り上がり方は最高だったが、肝心の対決そのものの描写、そして映画の締め方が、この作り手にしては大人しく萎んでしまったように見えた。  いかにもなジャパニーズホラー的な起点から、自らそれを嘲笑うかのような終着へ導いているのだから、もっと爆発的で破壊的な顛末を見せて欲しかったと思うのだ。 この一抹のフラストレーションを、あの夥しい血流の中できっと生き抜いているであろう霊能者(姉)が祓ってくれることを望む。
[映画館(邦画)] 8点(2018-12-23 20:44:40)(良:1票)
310.  ボヘミアン・ラプソディ
嗚呼、なるほど。この作品は、もう「映画」という領域の範疇を超えているのだと思った。 世代も、無知も、趣向も、もはや関係ない。 この映画と、描き出された人たちのことを何も知らなくても、スクリーンを通じて目の当たりにしたものに、只々、涙が止まらなくなる。 これは、そういう映画だ。  1981年生まれの自分は、クイーンのことを殆どよく知らないと言っていい。 もちろん、バンド名や、フレディ・マーキュリーという固有名詞は、どこかしらで幾度も耳にしたことはあるし、幾つかの代表曲についても耳馴染みはある。 ただし、どの楽曲もフルコーラスで聴いたことは無かったし、クイーンというバンドと、フレディ・マーキュリーという人物が、「時代」にとってどれほど重要で、どんなに愛されていたかということを、認識していなかった。  今作のインフォメーションを見聞きしても、昨今立て続けに製作されているバンドの固定ファン向けの半ドキュメンタリー的な映画なのだろうと、まったく興味を惹かれなかった。 たが、国内公開からしばらく経ち、各種報道番組で特集が連発される“過熱”ぶりを見るにつけ、一映画ファンとして流石に無視できない心境になり鑑賞に至った。  そして冒頭の所感にたどり着く。想定を大いに超えて、圧巻の映画体験であったことは間違いない。 無論、大前提として、クイーンという唯一無二のバンドが実際に存在し、彼らの音楽がそのまま使用されていることが、この映画の価値の9割以上を占めていることは明らかだ。 だが、その稀有な存在性の何たるかを、映画世界の中で“再現”しきったことが、やはりあまりに奇跡的なことだったのではないかと思える。  “再現”という言葉を使ったが、それはこの映画で描き出されたことの総てが“リアル”だというわけではない。 随所において、事実とは異なる経緯だったり、人物たちの言動を創作し、巧みに散りばめている。 だがしかし、その事実に対する改変が、イコール「虚偽」ということにはならない。 それは、クイーンというバンドの存在性、そしてフレディ・マーキュリーという人間を描く映画を生み出す上で、必要不可欠な“脚色”であり、だからこそ、今作は映画としてもきっぱりと優れているのだと感じる。  時代を越えて、国境を越えて、価値観を越えて、偉大な音楽がより一層多くの人に愛されていく。 映画に限らず、音楽に限らず、「表現」を愛する者にとって、それは何よりも幸福なことで、その多幸感にまた涙が溢れ出る。
[映画館(字幕)] 9点(2018-12-15 19:46:56)
311.  The Beguiled/ビガイルド 欲望のめざめ
何とも言えぬ後味。感情の深い部分にねっとりとへばりつくような余韻も残しつつ、潔さも感じる。 監督はソフィア・コッポラ。そう、彼女の映画はいつだって痛々しいほどに、潔い。  南北戦争の最中、負傷し南部の森の中を彷徨う北軍兵士の男が、自給自足の暮らしを営む女学院にたどり着く。女性の園に突如として現れた異分子(=男性)をめぐり、恐怖と、疑心と、抑えきれない欲望が渦巻く。 序盤から、ソフィア・コッポラらしい繊細かつ艶めかしい女性描写が際立っている。 森の中で鼻歌交じりに“キノコ”採取に勤しむ少女の描写からはじまり、溢れ出る欲情を抑え込みながら負傷兵の体を丹念に拭く校長(ニコール・キッドマン)、鬱積した人生からの解放を望む教師(キルスティン・ダンスト)、早熟で積極的な少女(エル・ファニング)、一人ひとりの女性の押し隠してきた感情が徐々に確実に露わになっていく様が、丁寧に描き出される。  この映画を「潔い」と感じたのは、まさにその女性たちの感情の変化に焦点を絞り、他の要素を極力排除していることだ。 舞台となる女学院の背景や、負傷兵の人物像については、敢えて表面的な表現に留め、不要なドラマ性を避けているように見えた。 そうすることで、女性たち個々人の人物像と感情が、シンプルに際立っていたのだと思う。  恐怖と疑心を経て、女性たちはときめき、欲情し、葛藤と嫉妬が次第に憎悪へと変遷していく。 その感情の流れのみに焦点をあて、没入していくことが、この映画で堪能すべき要素であり、この映画世界の魅力であろう。  今作は、1971年公開の「白い肌の異常な夜」のリメイクとのこと。同作が主演のクリント・イーストウッドが演じた負傷兵(男性)の目線で描き出されたのに対し、今作は女学院の面々の目線から描き出したことで、リメイクの価値、改変の価値を高めたのだと思う。 最初からソフィア・コッポラ自身が主導した企画だったのだと思うが、極めて的確なチョイスだったと思える。
[DVD(字幕)] 8点(2018-11-29 23:27:56)
312.  KUBO/クボ 二本の弦の秘密
昨年、世の好事家たちを唸らせたストップモーションアニメの今作をようやく観ることができた。 近年、ストップモーションアニメの進化が目覚ましい。 撮影技術の進化、3Dプリントをはじめとする造形技術の進化など、技術的な革新はもちろん大きかろうが、何よりも大きな要因は、観客も、作り手も、あらゆる作品に対して、本物の質感を強く求めるようになったことではないかと思う。  CG映像の隆盛に伴い、観客はもはやどんなリアルに見える映像を目の当たりにしても、驚かなくなった。映像上で何が起こったところで、「ああCGか」の一言で済ませてしまう。 言い換えれば、映し出される驚愕の映像がリアルであればあるほど、実際には触れないモノ、質感がないモノだと、無意識レベルで認識してしまっているのだと思う。 当然ながら、そういう感情を抱かせてしまった時点で、そこに観客の熱量は生まれない。観客の熱量を感じられないものに対して、作り手も熱量を注ぐことが出来なくなっている。  そこで再注目されている手段が、原点回帰的な特撮技術だったり、今作のようなストップモーションアニメなのだと思う。 人を形どったものに命を吹き込むというプロセスは、古来より世界中の文化が共通して培ってきたものであり、そこから溢れ出る芸術性と愛着感は、我々一人ひとりのDNAレベルに刷り込まれているのかも知れない。  そうして生み出された世界観とキャラクターが、これまた「物語」そのものの根幹に迫るテーマを紡ぎ出す。  「結末」があるからこそ、物語は美しく、価値が生まれる。 人は、心が弱ると、ついつい必要以上に「終幕」を恐れてしまう。 だが、結末を迎えた物語は、決してそのまま消えてなくなってしまうわけではない。  一つの物語を、また別の者が語り、紡いでいくことで、その価値は幾重にも折り重なり、新たな物語を生んでいく。 それは、「人生」の理とまったく同じだろう。  この世界は、そういうふうにできている。
[ブルーレイ(字幕)] 7点(2018-11-27 23:25:09)(良:1票)
313.  ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書
かの国は、どの時代も多大な危うさと愚かさを孕み、危機的な状況に陥る。 だがしかし、どんな時代であっても、その過ちにに対して是非を唱えることを躊躇わない国民性と精神が、しぶとく、力強くその存在を主張する。勇気ある個の主張が、次第に大きなムーブメントとなり、国の行く末を変えていく様を、歴史は何度も見ている。愚かで危うい国ではあるけれど、根底に根付くその精神こそが、かの国の本当の強さであり、偉大さなのだと思う。  実際に巻き起こったニクソン政権下における新聞社への政治的弾圧を背景にし、それに抗うジャーナリズム精神、女性の社会進出と権利主張、ベトナム戦争の是非に至るまで、当時のアメリカ社会の病理性がテーマとして複合的に絡み合う構成が、極めて見事だ。 スティーヴン・スピルバーグ監督は、タイトなスケジュールの中に埋め込むようにして、急遽今作の製作を進めたという。 巨匠をそこまでして突き動かした要因は、この映画のテーマ性が、まさに今現在のアメリカ社会が抱える切実な問題意識に直結するからだろう。 前述の通り、アメリカという国は、今この時代においても危うさと愚かさの中を突き進んでいる。 スピルバーグはこの映画を通じて、再び勇気ある主張が、大きなエネルギーとなって国の潮流を変えていくことを願ってやまないのだと思う。  そして、この映画において重要なことは、そういった現代社会に直結する重く堅いテーマ性を扱いながらも、しっかりと映画娯楽として確立されていることだ。 ストーリーの展開力、名優たちによる名演、精巧な美術等々、映画を彩るどの要素を切り取っても「面白い!」という一言に尽きる。  どうせ良い映画なんでしょ。と、思いつつ、実際観てみると、やっぱり、というよりも想像以上に良い映画だったことに舌を巻いた。 相変わらず世界最強の映画監督による、世界最高峰の映画娯楽を心ゆくまで堪能できる。もはや「流石」としか言いようがない。
[ブルーレイ(字幕)] 9点(2018-11-25 08:10:12)
314.  デッドプール2 《ネタバレ》 
前作を鑑賞した際も強く感じたことだが、「反則」こそがこのヒーローの最大の魅力であろう。 バラバラになっても再生するという不死身の肉体そのものがもはや反則的だが、それ以上に、「第4の壁突破」というメタ構造を自由闊達に行き来する独自のキャラクター性こそが、この赤マスクの最強の「武器」であることは言うまでもない。 そして、その要素を、原作キャラクターの枠すらも超えて最大限活かし尽くせるライアン・レイノルズをキャスティングできたことが、この映画シリーズの揺るがない成功要因だと思う。  ハリウッド俳優の地位は確立しつつも、いまひとつ作品に恵まれず、演技パフォーマンスの出来に関わらず嘲笑の的にされてきたライアン・レイノルズという俳優のキャリアそのものを、レイノルズ本人が自ら笑いものにし、文字通り“ぶっ殺す”様が、今作の稀有なエンターテイメント性のピークだ。  ライトなコメディ要素として、自らのキャリアを全否定する描写を入れているけれど、普通そんなことは容易ではない。 そういう意味では、レイノルズ本人の、俳優としての客観性と、人間としての懐の深さが表れている。 その俳優本人の魅力が、コミックキャラクターの枠を超えて溢れ出ているからこそ、ライアン・レイノルズが演じるデッドプールは世界中の映画ファンを熱狂させ得たのだと思える。  前作から引き続き、数々の“反則技”を繰り広げるデッドプールだが、今作ではついに時間すらも超越する。 その昔、スーパーマンが地球を逆回転させて時間を逆行させ、死んでしまったヒロインを救うシーンを観たとき、子供ながらに「それアリ?」とやや懐疑的に感じてしまった記憶があるが、デッドプールに対しては不思議とそういう感情は生まれなかった。  それは、彼の本当の武器が、“反則技”そのものではなく、非常識をまかり通した上で、それを味方は勿論、敵役にも、観客にも「許容」させてしまう“人間力”だからだと思う。 そりゃあ、ブラッド・ピットもマット・デイモンもバカな役でカメオ出演してくれるわけだね。
[ブルーレイ(字幕)] 7点(2018-11-24 10:47:02)(良:1票)
315.  アイ,トーニャ 史上最大のスキャンダル
“トーニャ・ハーディング”が、テレビカメラ越しに、やや諦観しているような真っ直ぐな眼差しで、軽薄な「大衆」に向けて、「あなた」という呼びかけと共に、静かな怒りと諦めをぶつける。 「あなた」というのは、まさに自分自身のことだと思えた。  1994年のリレハンメル五輪のあの冬、僕は13歳からそこらだったと思うが、トーニャ・ハーディングが途中で演技を止めて、審判席に詰め寄る光景をよく覚えている。 そして、僕は確かに、彼女のその様を、「往生際の悪い女だ」と、好奇と侮蔑を携えて見ていたことも、よく覚えている。 年端もいかない“ガキ”だったとはいえ、断片的に伝え聞いていたのであろうワイドショーの情報と、衛星中継の一寸の光景だけで、そういった底意地の悪い感情を抱いてしまったことは、恥ずべきことだったと思う。 結局、何が「真実」かなんてことは分からないけれど、自分も含めた大衆の無責任さは痛感せざるを得ない。  それにしても、一流アスリートとオリンピックを巻き込んだあの一連のスキャンダル事件を、このような形で、スポーツ映画としても、一人の女性像を描き出す作品としても成立させ、見事な傑作として完成させてみせたことには驚かされた。  マーティン・スコセッシの犯罪映画のようでもあり、デヴィッド・フィンチャーの実録映画のようでもあり、最新の撮影技術を駆使した確固たるスポーツ映画でもある今作は、極めて芳醇な多様性を孕んでいて、最初から最後まで決して飽くことがない。 二十数年前のスキャンダルを知っていても、知らなくても、面白みを堪能できる作品に仕上がっていることは、虚偽と真相、フィクションとノンフィクションの境界を描く今作が、大成功を収めていることの表れだろう。  演者で特筆すべきは、やはりなんと言ってもマーゴット・ロビー。 どこまでも愚かであり、どこまでも不憫な実在の女性像を見事に表現しきっている。そして、間違いなく世界トップクラスのフィギュアスケーターだったトーニャ・ハーディングを演じるにあたってのアスリートとしてのアクションも、極めて高い説得力と共に体現していたと思う。  ラストシーン、スケート界から追放された主人公は、ボクシングのリング上で、アッパーカットを浴び宙を舞う。 その様をかつての“トリプルアクセル”と重ねて映し出すという「残酷」の後、リングに打ち付けられた彼女は再びこちらを見つめてくる。 この映画は、無責任な好奇の目に晒され続けた彼女が、それを浴びせ続けたこちら側を終始見つめ返す作品だった。
[DVD(字幕)] 9点(2018-11-23 23:52:48)(良:2票)
316.  バッド・ジーニアス 危険な天才たち 《ネタバレ》 
基本的に「試験」と名のつくものを避けてこれまでの人生を歩んできたタイプの人間なので、国内も含めアジア各国から時折伝わってくる“カンニング”をはじめとする不正入試や、受験戦争に伴う社会の混乱のニュースを見聞きするたびに、「なんて馬鹿馬鹿しい」と思ってしまう。 本末転倒とはまさにこのことで、何のための勉強であり、何のための試験なのかということを、理解しようともせず右往左往する社会の様子は、なんとも無様だ。  そういった問題提起も無論根底に敷きつつ、このタイ王国版「That’s カンニング!」(観たことないが)は、世界に通用する確固たる娯楽映画として展開されている。  進学校の高校生たちが繰り広げるカンニングの様を、あたかもスパイムービーかケイパームービーのようにスリリングに繰り広げる映画表現としての水準の高さが先ず光る。 タイ語で書かれた試験のマークシートが押し迫る“時間制限”の中で塗りつぶされていくシーンは、試験のシーンとしてごく当たり前のカットの筈だが、スタイリッシュかつ緊張感たっぷりに映し出され、とてもフレッシュなエンターテイメント性を感じることができた。 出演するタイの若い俳優たちも、それぞれが個性的な魅力を放っており、一様に光っていたと思う。 これからもタイ映画界からは、国境と文化圏を超えた良作が量産される可能性を大いに感じる。  ただ、目新しく、楽しみがいのある映画であることは確かだが、一方でストーリー的にもやもやと気が晴れず、腹に落ちない部分もあった。 もやもやとする最たる要因は、最終的に主要登場人物の誰にも感情移入が仕切れないことだ。  特に主人公の言動を理解しきれないことが大きい。 彼女は、友人に懇願されているとはいえ、ほぼほぼ“首謀者”であることは疑いようもなく、「自業自得」という一言に尽きる。 家庭環境的にも、裕福ではないとはいえ、それほど劣悪なわけでもないため、彼女があのような行動を繰り広げた必然性が見当たらない。父親の彼女に対する愛情は一貫して揺るがないので、同じ親の立場からすると、只々父親が不憫でならない。 ラストシーンにしても、やけに清々しく正々堂々感を醸し出しているが、彼女の行動がすべて安直で浅はかなので、それが果たして正しい「責任」の取り方なのかと疑問符を払拭できなかった。  一方で、主人公と鏡像関係のライバルとなる天才苦学生の描かれ方は、是非はともかくとして容赦がなかった。映画の中で最も生真面目で清廉潔白だった彼を、これ程までに容赦なく“ダークサイド”に落とし込んでいくストーリーテリングには、この国の人々が抱えているのであろう社会における無慈悲や不合理に対する怒りとジレンマを感じた。  果たして、最も罪深い人物は誰で、その功罪はどのような形で示されるべきなのか。 その明確な“解”を映画内で示す必要はないけれど、“問”自体はしっかりと明示されるべきだったと思う。
[映画館(字幕)] 7点(2018-11-15 08:32:12)
317.  バーニング・オーシャン
人間が、「地球」を削り、築き上げてきた文明の上で被る災害のすべては、何がどうであれ「人災」と言えるのかもしれない。 この映画で描かれる実際に起こった“災害”にしても、もし人間以外の者が傍から見ていたならば、「自業自得」と断罪されても致し方あるまい。 ただ、たとえそうだとしても、生き抜くことに執着して、妻子の元へ戻ろうとする権利は誰にだってあり、そのために力を尽くすことこそが、我々人間の正しい在り方だと思う。 炎が燃え盛る海の上、ほんの数十分の間、それをやり遂げた“普通”の人間たちの、良いも悪いも人間らしい姿に胸を打たれた。  2010年にメキシコ湾沖で実際に発生した原油流出事故を描いた作品なので、良い意味でも悪い意味でも映画世界の表現は制限されている。 前述の通り、登場する人物は石油採掘施設で働く作業員をはじめとするごく普通の人々であり、絶体絶命の危機を奇跡的に打開するスーパーヒーローなどは存在するわけもない。  休暇が明け、至って日常的に現場業務に戻り、普通に就労する中で突如として事故が発生する。 マーク・ウォールバーグ演じる主人公は、献身的な言動をするけれど、決して過度ではなく、あくまでも現場の責任者の一人としての一般的な救出作業に留める。 一方、一応の悪役として存在するジョン・マルコヴィッチ演じる発注企業側の責任者も、分かりやすい悪人などではなく、自社の利益とその達成を任されている企業人としての役割を全うする“嫌われ役”程度に描かれる。 そういう展開的な派手さや、極端な人物描写が全くない分、事故そのものの原因と現実的な危険性が明確になり、とてもリアルだったと思う。 当たり前の光景を描きつつも、吹き出す炭酸飲料や、車のエンジントラブル、不吉な色のネクタイなど、ささやかな描写を連ねて、これから起こるであろう“不穏さ”をさり気なく表現した冒頭シーンも巧かった。  一方で、当然ながら特筆すべき劇的な展開が訪れないことも事実。 もしこの映画を、「災害パニック映画」として観てしまったならば、大いに肩透かしを食らうだろう。 冒頭からのストーリー展開はまさに災害パニック映画的だけれど、事実を描いている以上、似て非なるものと理解すべきだ。  故に、果たして商業映画として成立するほどの題材だったのかという疑問符は生じる。 マーク・ウォールバーグ、カート・ラッセル、ジョン・マルコヴィッチとスター競演のスペクタクル映画として宣伝したのであれば、物足りなさが残ることは否めない。  事実を歪曲する必要は全く無いけれど、例えばクリント・イーストウッドが旅客機の不時着事故を映画化した「ハドソン川の奇跡」のように、事故後の当事者たちの葛藤や人生模様まで描きこまれていたならば、今作はもっと良い映画になっていたと思う。 まあそういう“行儀のいい”ドラマ描写を極力避けて、石油プラントの大爆発炎上シーンに心血を注ぐあたりに、ピーター・バーグ監督の“らしさ”を感じるけれど。
[CS・衛星(字幕)] 7点(2018-11-04 23:10:19)
318.  バーフバリ 伝説誕生
話題の超大作インド映画をようやく鑑賞。評判に違わぬ豪華さ、熱さ、美しさを堪能できる「流石、インド映画!」という仕上がり。 物凄い映像的物量を目の当たりにしながら、感覚としては、超豪華絢爛な舞台劇を観ているような特殊な娯楽的迫力が、この作品のパワーであり、あらゆる文化圏を飛び越えて観客を魅了する理由だろう。 インド映画の愛すべきところは、その「躊躇」のなさだと思う。 この国の映画は、描き出そうとする娯楽性に対して、てらいもためらいもない。  当然、今作も冒頭から躊躇はない。 ファーストシーン、祖国を追われた瀕死の女王が、激流に呑み込まれながら命をかけて赤子を守り切るのだが、その描写がいきなりぶっ飛んでいる。過酷な運命を強いる神に対して啖呵を切ったかと思えば、赤子を片手で水面から掲げて、なんとその姿勢のまま溺死する。「なんじゃそりゃ!」と思ってしまうが、この冒頭のシーンなどは文字通りの序の口なので、気にしてなどいられない。 その後も全編通して、主人公“バーフバリ”の3世代に渡る熾烈な宿命が、豪胆に、破天荒に描き連ねられる。  ストーリー展開においては、手塚治虫の「火の鳥」のようなダイナミズムと世代を渡って展開される運命模様も感じる。特に序盤の大滝を登っていくくだりは、「火の鳥 黎明編」のラストに着想得ているのではないかと思わせた。  アドベンチャーシーンから大合戦シーンまでアクション描写は多様で勿論迫力満点だが、今作で個人的に最も白眉だったのはロマンスシーンだ。 大滝を登りきり、見たこともない愛しき君にようやくめぐり逢えた主人公が、戦士であり激情的なヒロインの警戒心を華麗にかわし、包み込むように、美しき女性に導いていくシーンが何とも「素敵」だった。  躊躇なくあらゆる娯楽性を増し増しで盛り込んでいるからこそ、この映画は老若男女が様々な側面から楽しむことが出来得るのだろうと思う。 今作だけでも、物凄いエネルギーを見せつけてくれるが、それでもまだ二部作構成の続編に向けて「本領」を抑えていることは明らか。 俄然、完結編の鑑賞が楽しみになった。
[CS・衛星(吹替)] 8点(2018-11-04 11:19:08)(良:1票)
319.  ヴェノム
アメコミ映画が飽和状態で、食傷気味になりつつある中、今作が孕んでいたテーマとアイデアからは、充分に新たな独自性を放つ可能性を感じた。 そうきっぱりと断言できるくらい、“ヴェノム”というダークヒーローの存在感は魅力的だったと思う。 宇宙の果てから明確な“悪意”を持って地球に侵入した謎の生命体(実は負け犬)が、人生に打ちひしがれた主人公(もちろん負け犬)に寄生し、融合し、共に傍若無人で残虐な制裁を繰り広げるというプロット。 宇宙の片隅で奇跡的に混じりあった負け犬同士の“リベンジ”を描く物語構造は、間違いなく胸熱で、ボンクラ映画ファンを狂喜に包み込むだけの可能性を秘めていたと思う。  日本のポップカルチャーファンとして、そこに垣間見えたのは、「寄生獣」のおぞましさと、「ど根性ガエル」の可笑しさだった。 が、しかし、残念ながらこの映画が表現し得たのは、あくまでもその一端に過ぎず、随所に目を引く娯楽性は散見するものの、トータル的には、僕たちボンクラ映画ファンが求める娯楽性を突き詰め切れていなかった。  この映画に足りなかったものは明らかだ。 クライマックスに向けて、主人公とヴェノムの間に生じたのであろう互いに対する「信頼性」と「必要性」の描きこみが、全くもって希薄であったことに尽きる。  残虐で不可思議な宇宙生命体との間で「友情」なんてものを安易に描く必要はないけれど、“彼ら”が稀有な運命の中で邂逅し、反目と拒絶を繰り返しながらも、徐々にお互いを必要とするプロセスをちゃんと描いてほしかった。 それは、この映画にとって、ド派手なアクションシーンなんかよりもずっと重要なものであり、せめてあと2、3シーンでも彼らがキャッキャする様が軽妙な掛け合いと共に描きこまれていたならば、今作はもっとサイコーな映画になっていただろう。  また、「最も残虐な悪」なんて謳ってはいるけれど、その表現方法も極めて中途半端だった。 元々、スパイダーマンに登場するヴィランのダークヒーロー化なわけだから、ヴェノム自体を“純真な悪”として振り切って描くべきだった。 表向きには主人公との共存共栄を望んでいるようにみせて、実のところは主人公の心身を侵食し支配していくおぞましさを表現してほしかった。  そういうこの題材がもつツボをちゃんと理解し、それこそ「寄生獣」や「ど根性ガエル」すらもフォローするオタク魂全開で、映画世界を構築することが出来る人が監督を担っていたならば……極めて“好物”な雰囲気を醸し出していただけに、口惜しくてならない。
[映画館(字幕)] 6点(2018-11-02 23:14:11)
320.  タリーと私の秘密の時間 《ネタバレ》 
長女7歳、長男4歳を持ち、共働きの妻とともに、“子育て”をしてきたつもりの父親(自分)にとっては、問答無用に身につまされる作品だったことを、先ずは認めなければなるまい。  日本語タイトルに「時間」という言葉が使われているが、子を育てる、つまりは「親」という立場で生活を送ることにおいて、母親と父親ではまさに「時間」という概念の在り方と、体感が全く異なるのだと思う。 それくらいに、子育てにおける母親と父親の負担は、アンバランスだ。 僕自身そうなのだが、恐らく世界中の殆どの“父親”は、そのことを半分気がついてはいるけれど、目を伏せ、耳をふさぎ、気がつかないふりをしている。  この映画は、シャーリーズ・セロン演じる主人公の母親と、とある“ナイトシッター”との交流を描く物語だ。 日本では殆ど聞き馴染みがないが、“ナイトシッター”とは文字通り母親の就寝時間に乳幼児の見守りと世話をしてくれるベビーシッターとのことで、欧米ではポピュラーになりつつあるらしい。  ナイトシッターの“タリー”は、毎晩22時過ぎに訪れる。そのため、今作は必然的に「夜」のシーンが圧倒的に多い。 だがしかし、この映画の各シーンは、「夜」であるという“意識”を意図的に避けるかのように、明るく、温かく、色鮮やかに映し出される。 したがって、観客は知らず知らずのうちに、育児ノイローゼで疲弊した主人公の心労が、“タリー”の存在によって癒やされ、回復していっているものだと、疑う余地もないくらいに……“刷り込まれる”。 結果、観客にも、主人公本人にすら、夜を夜と感じさせないことが、逆説的にこの物語が孕む普遍的な深刻さと問題の重さを表していた。  監督は、「JUNO/ジュノ」、「ヤング≒アダルト」のジェイソン・ライトマン。両作とも脚本を担ったディアブロ・コディとの三度のタッグによる作品世界の安定感は抜群で、ストーリーテリングは勿論のこと、映画作りが流石に巧かった。 序盤から、“上手な映画”の心地よさを堪能することができた。  そしてなんと言っても、シャーリーズ・セロン姐さんの、演技力、存在感、役作り、それらすべてをひっくるめた「女優力」が相変わらず物凄い。 彼女は、3人目の子を妊娠・出産する母親役を演じるにあたり、約20kg増量したという。 前作が昨年公開の大傑作アクション映画の「アトミック・ブロンド」だっただけに、その“体格差”に只々愕然とせざるを得ないし、見事すぎる程に体を仕上げ、全く異なる女性像を体現しきった様には、感嘆するしかない。   驚きの顛末と共に描き出された「真相」の正体が、あまりにも普遍的でありふれた課題だったからこそ、この映画表すテーマ性は非常にヘヴィーだ。 親になり、子育てという営みに向き合う以上、きっとこの課題が丸々解消されるなんてことはあり得ない。 ただし、それを分かち合い、共有することはできる。  閉鎖的なヘッドホンを外し、隣り合ってイヤホンを共有するだけで、たぶん大抵のことはうまくいく。ということを心に刻み、ひたすらに猛省&猛省。
[映画館(字幕)] 8点(2018-10-25 20:37:17)
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