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鉄腕麗人さんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 2594
性別 男性
ホームページ https://tkl21.com
年齢 43歳
メールアドレス tkl1121@gj8.so-net.ne.jp
自己紹介 「自分が好きな映画が、良い映画」だと思います。
映画の評価はあくまで主観的なもので、それ以上でもそれ以下でもないと思います。

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61.  オールド 《ネタバレ》 
詰まるところ、人間にとっての最大の脅威は「時間」であるということ。 「時間」というものの非情さと残酷。それに直接的に脅かされた時、またはそれを独善的に操れると知った時、人間は狂気と慈愛の狭間で混乱し、混沌を生む。  立ち返ってみたならば極めて普遍的なテーマを主軸に据えた話ではあった。 だが、そこからよくもまあこんな狂った“設定”を思いつき、ストーリーを練り上げ、緊張と恐怖を創出できるものだ。あまりにも奇妙な事象を、極めてシンプルな映画世界の中できっちりと表現している。 「さすがはM・ナイト・シャマランだ」と称賛するに相応しい作品だったと思う。  私自身、常に時間の経過には焦り、脅えている。 特に忙しない人生を送っているわけでもなく、呑気な部類の生き方だとは思うが、それでも無情に過ぎ去る時間を無駄にしたくはないと常に思っているし、ふと覗いた鏡の中の自分が徐々に確実に老いていることを感じるたびに、焦燥感は吹き出る。  自分の子供が生まれ、彼らの足早な成長を目の当たりにするようになると、時間の経過とそれに伴う自分自身の“変化”は、事程左様にくっきりと輪郭を帯びるようになってきた。本作において子供のキャラクターを複数設定している意図は、まさにそういう部分にあったに違いない。  この映画の中で、登場人物たちは非人道的な時間による暴力によって、狂気のるつぼに放り込まれる。 ただでさえ非情な時間が、轟々と音をたてるように流れていき、彼らは焦ったり、恐怖に怯える間もなく、異常な現実を突きつけられる。  この映画のストーリーテリングが、とても恐ろしく、同時にとても面白いのは、登場するキャラクターたちが、異常事態による恐怖や狂気によって破滅していくというよりも、あくまでも「時間」の経過に伴う自然の摂理や、人間としてのある種の成長によって、一生を終えていくというところだ。 ある者は老衰で、ある者は持病の進行によって、ある者は老いていく自分の姿に耐えられず、そしてある者は人間的成長に伴って生まれた盲目的な使命感によって……。  つまりそれらは、すべての人間が通常の世界で生きていく中で誰しも迎え得る結末であるということ。 この世界で生きるすべての人間は、「時間」というサバイバル中に身を置き、生死をかけて彷徨い続けているということを、この奇怪な映画世界は雄弁に物語っていたのだと思う。  どんなに異常で暴力的な時間経過の只中であっても、適切な“死の順番”を迎えられたことに対して、主人公家族の両親たちは“束の間の幸福”を得られたのだろう。 私自身、人の親として、また人の子として、せめてそのことは守りたいと切に願う。
[インターネット(字幕)] 8点(2022-07-16 00:16:28)
62.  ナイル殺人事件(2020) 《ネタバレ》 
梅雨の日曜日。特に天気が悪いわけではなかったが、前夜の深酒がたたり午後になっても二日酔いが辛かったので、部屋に引きこもって映画を観ることにした。 随分前から動画配信サービスのマイリストに入りっぱなしになっていたケネス・ブラナー版の「オリエント急行殺人事件」を鑑賞し、立て続けにその続編である本作「ナイル殺人事件」を鑑賞。 異国情緒溢れる豪華絢爛な映画世界をトータル4時間分堪能して、取り敢えず満腹感は大きい。  「オリエント急行殺人事件」と同様に、本作の原作「ナイルに死す」も過去幾度も映像化された作品。ピーター・ユスティノフがポワロを演じた1978年の映画作品も鑑賞済みだった。ストーリーテリングの細かい部分の記憶が薄れていたので、ミステリが展開していく流れについては新鮮に楽しめた。 がしかし、最終的に残った感想としては、1978年版を鑑賞した時と同じ不満を覚えた。  それは、「さすがに3人は殺されすぎじゃないか?名探偵さんよ」ということ。  無論のことながら、そもそも殺人事件が起きなければ「名探偵」というキャラクターは成立しないわけで、それはシャーロック・ホームズから江戸川コナンに至るまで古今東西の名探偵キャラの宿命であり苦悩であろう。  ただこのナイル川における連続殺人については、ポワロの失態と言わざるを得ない。 “オリエンタル急行”の場合は、殺人が計画されていた車両にあくまでも「偶然」乗り合わせた状態だったろうが、今回の場合は全く異なる。 身の危険を感じていた被害者本人から依頼され、「危険人物」とされる人間の存在も確認していながら、まんまと依頼人は殺され、第2、第3と惨劇は続き、最終的にはそれ以上の死人を生む悲劇へ終着してしまう。  しかも、大富豪御用達の豪華客船とはいえ、それほど巨大とは言えない船内での事件なので、ご自慢の“灰色の脳細胞”をフル回転させれば、惨劇を最小限に食い止める方法はいくらでもあっただろうと思ってしまう。  更に今回のリメイクでは、原作からの改変により、第3の被害者がポアロ自身の友人に変更されている。 目の前で殺人が行われた上に、大切な友人まで失う始末。嗚呼、なんと不憫な名探偵だろうか。  ケネス・ブラナー監督自身が、エルキュール・ポアロを演じるという大車輪の活躍を見せるこの新シリーズは、過去の作品よりもより一層ポアロという人間そのものの内面を抉り出そうとしている。 また人種問題をより浮き彫りにさせたり、ジェンダー問題を想起させるキャラ設定の追加をしたりと、決して小さくない改変に挑んでいる。 現代においてリメイクするにあたって、その意欲的な試み自体は評価したいところだけれど、それが作品世界の中で効果的に作用しているとは言い難い。 改変箇所が単なる「違和感」と感じてしまう部分は少なくない。   当初は計画していたエジプトロケが叶わず、シーンの大半をCG合成に頼らざるを得なかったことなど、作品全体から垣間見える「歪さ」は、製作における苦労は多分に物語っている。 そんな中でも、この原作に相応しい絢爛豪華な「雰囲気」だけはきっちりと保って、娯楽性を保っていることは、ケネス・ブラナーの堅実な尽力によるものだろう。  次作のプロジェクトもまだ残っているようなので、“髭”を蓄え直してどうか頑張ってほしい。
[インターネット(字幕)] 5点(2022-06-28 17:42:24)
63.  オリエント急行殺人事件(2017)
とても真っ当に「豪華絢爛」な映画だったと思う。 豪勢に作り込まれた列車内の美術や調度品、雪原を突き進む急行列車の雄大な風景、そして昨今ではなかなか見られない“オールスターキャスト”。 それらの娯楽要素がこの映画企画の中核であることは間違いなく、求められるクオリティでしっかりと仕上げてみせている。監督&主演を担ったケネス・ブラナーは、映画人として、相変わらず堅実な仕事を全うしている。  アガサ・クリスティの原作「オリエント急行の殺人」は、過去何度も映像化されたミステリーの古典であり、その知名度の高さは言わずもがな。必然的に、ミステリーの要である「真相」も既に世界中に流布されている。 普通ならば、オチが知れ渡っているミステリー映画を何度も観たいとは思わない。 それでもこの推理小説が何度も映像化されるのは、描き出される人間の群像の中心に、唯一無二のドラマ性が存在するからだろう。  僕自身が「オリエント急行の殺人」の映像化作品を観たのは、本作で4作目。 1974年のシドニー・ルメット監督作版、2010年のデヴィッド・スーシェ主演のイギリスのテレビドラマ版、そして三谷幸喜脚本による日本を舞台にしたスペシャルドラマ版(2015年)に続く、4度目の「オリエント急行殺人事件」となる。  本作も含めて、どの作品ともとても楽しんで鑑賞することができたことからも、僕自身この物語自体が大好きなのだろうと思う。(恥ずかしながら原作は未読なので、今更だけども小説も読んでみようと思う)  そして、入れ代わり立ち代わり描き出される群像劇こそが肝の物語の特性であることが、オールスター映画として仕立てやすく、そもそもセレブリティを対象にした急行列車が舞台であることも相まって、「豪華」な映画世界を構築しやすいことも、この作品が映像作品として幾度も製作される要因だろう。  本作は、幾つかのキャラクター設定や人種設定の変更はあったものの、基本的には過去の映像化作品から大きく逸脱するものではなかった。 悪い言い方をすれば、斬新さというものは皆無と言ってよく、今の時代にリメイクされることの意義を問われることも致し方無いとは思う。  ただ敢えてオーソドックスにリメイクされることが、映画史の文脈において価値があることもあり、本作はまさにそういう類の作品だとも思う。 是非はともかくとして、監督も務める映画人が新たなエルキュール・ポアロを自ら体現し、ハリウッドきっての個性派のスター俳優が憎しみの象徴となる悪役を演じ、新旧の名女優たちが顔を揃えて世界一有名なミステリーを彩る構図は、ただそれだけでも確固たるエンターテイメントだったと思える。 過去の映像化作品と比較して、No.1ポワロは誰だとか、あの役はあの俳優の演技のほうが良かったなどと言い合うこともまた映画を楽しむことの一つだと思うのだ。  オーソドックスではあるものの、一つ一つのシーンやカットはとても丁寧に作り込まれていて、ケネス・ブラナーらしい様式美に溢れていた。 窓ガラスの縁でダブる乗客の表情や、「最後の晩餐」を思わせる横並びのカットで審判を受ける乗客たちの構図など、意欲的な画作りは交換が持てたし、本作が持つ味わい深さだと思う。  僕自身、改めて過去作を見返して、それぞれの「オリエント急行の殺人」を堪能してみようと思う。
[インターネット(字幕)] 7点(2022-06-27 22:22:21)
64.  トップガン マーヴェリック
トム・クルーズがトム・クルーズであることを貫き通したことが、また一つアメージングなエンターテイメントの傑作を生み出したのだと思う。 そう断言してしまっていいくらい、本作にはトム・クルーズという“映画人”の生き様が凝縮されている。 そしてそれは、世界中のすべての映画ファンにとって、幸福で、最高な「映画体験」をもたらしていると思える。   1986年のオリジナルから36年、多くの映画ファンが続編を待ち望んでいたと言うが、実のところ個人的な期待感は極めて小さかった。 なぜなら36年前のあの“戦闘機映画”が、それほど良い映画だとは思っていなかったからだ。 実際に鑑賞したのは、僕自身が20代前半の頃だったと思う。画面に映る主演俳優の若々しさを興味深く追いつつも、作品全体の仕上がりに“浅さ”を感じてしまい、あまり感動を覚えなかった。 アクション映画としても、その時点で公開年が20年近く前の映画に対して興奮し得る要素はあまりなく、割とありふれた青春映画、もしくはスポーツ映画を観ている感覚だったと思う。  したがって、この続編の制作の遅れやコロナ禍による度重なる公開延期の報を聞いても、特に残念に思うことも無かった。他の多くの大作映画と同様に、劇場公開に至らず「配信」になっていたとしても、「ああそうなんだ」と思うに留まっただろう。 そんなふうな認識だった「映画ファン失格」の僕は、まずトム・クルーズに対して謝罪して、感謝の言葉を尽くさなければならない。   本作に限らず、どの映画製作においても、その規模が大きくなればなれるほど「妥協」という言葉は常につき纏う。どんなに高い志や理想があったとしても、完成して、公開されなければ映画というものの存在意義はそもそも生まれない。 その結果、「駄作」になってしまった映画は星の数ほどもある。 しかし本作は、トム・クルーズが、主演俳優として、そして映画プロデューサーとして、「妥協」を考え得る最小限に留め、映画人としてのエゴイズムを貫き通したからこそ、問答無用の「大傑作」として存在意義を得ているのだと思う。  本作の映画としてのあり方やストーリーテリングそのものは、極めてシンプルであり、王道的であり、ベタである。ただだからこそ、その豊潤なエンターテイメント力に圧倒される。 本物の戦闘機の轟音、俳優たちが本当に乗り込んでいるからこそ表現できる重力、そして本当に歳を重ねた主演俳優の円熟味と変わらぬスター性。 正真正銘の「リアル」が、この娯楽映画の真髄であろう。   36年ぶりに紡がれた“マーヴェリック”の物語は、彼自身が若者だった1986年の物語に新たな価値を与え、高めている。そこには映画世界の内外における「継承」が成されていて、そのことがまた多層なドラマティックを生み出している。  それはやはり、世界ナンバーワンの映画スター(映画バカ)がもたらした偉業であり、映画史における“ミラクル”だと思うのだ。
[映画館(字幕)] 10点(2022-06-18 08:41:34)(良:3票)
65.  マトリックス レザレクションズ 《ネタバレ》 
20年越しの「復活(Resurrections)」という名の「強制再起動」。 昨今90年代前後の大ヒット映画のリメイクや続編製作が連発される映画界において、本作もプロジェクトの発端そのものはその例に漏れるものではないだろう。 ただ、本作には、そういった現在の映画界に蔓延するネタ不足と、マンネリ化を超越して、「マトリックス」という映画世界そのものとそれがもたらした文化を俯瞰して再構築するという“メタ視点”と“反則技”が満ち溢れていた。 そこには、単なる“アイデア不足”にはとどまらない意欲と、本作単体としてのアイデンティティがあったと思う。  1999年と同じく、主人公ネオ(=アンダーソン)を演じるキアヌ・リーブスが、かつて「マトリックス」という大ヒットゲームを生み出した伝説的クリエイターとして登場し、ゲーム会社に囲われるようにして、惰性の日々を貪っているというメタ的設定がまず面白い。 マトリックストリロジーの顛末を経て、「救世主」としての“役割”を全うし、機械支配からの解放を促したはずの彼が、再び囚われの身になっているという状況が、何を表しているのか。 映画史の文脈を超えて、文化的、社会的な革命の象徴となった「マトリックス」という映画世界が生み出した価値は、何を生み出し、その後時代の変遷と共にどのような位置づけに変わっていってしまったのか。  そこには様々な要素と解釈が入り混じり、我々映画ファンを再び“鏡の世界”へと誘っていた。 週末の深夜、眠気と戦いながら動画配信サービスで一度観ただけでは、正直理解しきれない部分は多いし、正確な解釈をしきれていないことは我ながら明らかだ。 やっぱり出来栄えに訝しがることなく公開時に映画館で観るべきだった、と後悔は否定できない。  ただ一つ強く感じたことは、本作はオリジナルに引き続き監督を務めるラナ・ウォシャウスキー監督の極めてパーソナルな感情や心情、人生模様が如実に反映された作品として仕上がっていたということ。 マトリックストリロジーよって「自由」を掴み取ることの真意を文字通り革命的な映画世界の中で追求し、自分自身、映画人として、そして人間として、「自由」を追い続ける彼女の生き様とその強い思いが、この映画には満ち溢れている。 そう言うなれば本作は、「マトリックス」を生み出した一人であるウォシャウスキー監督だからこそ許されるセルフパロディであり、壮大な「個人映画」だったのではないかと思えるのだ。  1999年の「マトリックス」第一作のラストシーンを模した主人公たちの飛翔には、あの時と同じ高揚感を覚えた。 この後の続編がまた生み出されるのかは知らないけれど、時代が変わり、価値観が変わっても、「自由」を追求するための可能性は無限に広がり続ける。
[インターネット(字幕)] 8点(2022-05-20 22:42:24)
66.  ドクター・ストレンジ/マルチバース・オブ・マッドネス 《ネタバレ》 
ある程度「覚悟」はしていたつもりだったけれど、想像を越えた“狂気のるつぼ”を目の当たりにして、正直面食らってしまった。 タイトルが指し示していた通り、“マルチバース”の多層世界が折り重なると同時に、あらゆる表現で具現化された狂気性そのものが入り混じり、特異な映画世界を構築していた。  一瞬、これが“MCU”の最新作であることを見失ってしまうくらいに、この映画における狂気と怪奇、そして恐怖は振り切っていたと思える。 そこには、これまた予想以上に、監督を務めたサム・ライミの“風味”が充満していた。 先日、サム・ライミ版「スパイダーマン2」を再鑑賞した時も感じたが、やはり芸術的なまでにおぞましい恐怖描写こそがこの名匠の真骨頂であり、どんなシリーズ映画であろうともその“サム・ライ味”が抑えられることはないのだろう。  シーン的に白眉だったのは、やはりダークサイドに完堕ちしてしまったワンダことスカーレット・ウィッチの恐怖シーン。 満を持して特別出演した“イルミナティ”の面々を一蹴(惨殺)した挙げ句、逃亡するストレンジたちを執拗に追走してくるシーンは、まさにホラー映画そのものだった。  その他にも、古楽器から奏でられる音楽を具現化したストレンジ同士のバトルシーンや、ゾンビストレンジによる“死霊のはらわた”全開の怨霊大作戦、全編に渡ってゴシックホラー感満載のヴィンテージライクなカメラワークなど、やっぱりこの映画は、MCU映画である以上に、「ドクター・ストレンジ」の続編である以上に、“サム・ライミの映画”だった。  一方、個人的には、「アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン」以来のエリザベス・オルセン演じるワンダのファンなので、スカーレット・ウィッチとして完全に暗黒世界に陥ってしまった彼女の姿は悲しすぎて見てられなかった部分はある。 そして、こうなってしまった経緯を描いているらしいドラマシリーズの「ワンダヴィジョン」はやっぱり観ておくべきだったなと後悔は否定できない。  ただ、この映画の混沌は、そんな個人的趣向や、ストーリー上の不理解なんてどうでも良くなるくらいに常軌を逸している。 本作によって強引なまでにこじ開けられた世界観の拡大によって、今後のMCU作品が益々“マルチバース化”そして“マッドネス化”していくことは明らかだろう。  お決まりのエンドクレジットでは、まさかのあのトップ女優のMCU初参戦確定! リアルに多層構造化し巨大化していくディズニーのビジネス戦略にまんまと取り込まれることも覚悟して、改めて“Disny+”の契約も検討せねば……。
[映画館(字幕)] 7点(2022-05-08 22:58:30)
67.  キングスマン: ファースト・エージェント
元々、僕はこの人気シリーズとは“相性”が良くないらしく、過去2作とも割と期待感高く劇場鑑賞してきたけれど、いずれも悪ノリの面白さよりも、露悪的な表現によるストーリーの破綻の方に嫌悪感を感じてしまい、全くハマることが出来なかった。 マシュー・ヴォーン監督の出世作、「キック・アス」や「X-MEN:ファースト・ジェネレーション」は傑作だと思っているだけに、監督の個人趣味に突っ走った本シリーズは、余程自分の趣味に合わないのだろうと思う。  そんな経緯なので、「キングスマン」の“エピソード0”として製作されたこの最新作に対しても、特に期待感は無く、度重なる公開延期に対してもほぼスルー状態だった。 某配信サービスの最新作にリリースされたので取り合えず鑑賞してみたが、率直な感想としては、可もなく不可もなくといったところか。  過去2作に比べると、悪趣味な暴走ぶりは鳴りを潜めており、“見やすい”娯楽映画だとは思う。ただし、その代わりに特筆すべきエンターテイメント性が無いことも事実だろう。  特に物足りなかったのは、前作までの(個人的には)唯一にして最大のハイライトだったギミックの娯楽性がほぼ皆無だったことだ。 時代設定が第一次世界大戦前夜であるから、ハイテク機能を隠し持ったギミック満載のスパイ・ガジェットの登場は無理だったろうけれど、前二作に登場したガジェットの「原型」となった“秘密道具”くらいは駆使してほしかった。  ストーリーテリングや、登場人物の言動においても、説得力に欠ける点が多く、どうにも映画世界に入り込むことができなかった。 レイフ・ファインズ演じる主人公は、無論“THE紳士”なたたずまいでソレっぽいけれど、実際のところ彼の行動は行き当たりばったりなことが多く、決して理知的でもなければ、紳士的でもなかった。 挙句、何よりも大切な家族や友人たちをことごとく失くしてしまうわけだから、やはりヒーローとしての魅力や説得力に欠けてしまっていることは否めない。  やはりマシュー・ヴォーン監督においては、むしろ制約の多いハリウッド大作の中で、しがらみに雁字搦めになりながら、それでもギリギリの範囲で“悪趣味”を爆発させるくらいの方が、彼のセンスが際立つのではないか。 彼の出世作がいずれもアメコミ作品であることは言わずもがなだし、同じくアクの強い映画監督であるジェームズ・ガン監督が、MCUやDCのアメコミヒーロー映画で傑作を連発していることからも、進むべき道は明らかだと思うけれど。
[インターネット(字幕)] 5点(2022-03-13 01:08:43)
68.  ゴーストバスターズ/アフターライフ
2022年2月12日、「ゴーストバスターズ」を生み出した映画監督アイヴァン・ライトマンが亡くなった。 この最新作にもプロデューサーとして名を連ね、監督を務めた息子ジェイソン・ライトマンと共に出演していたプロモーション映像でも顔を見たばかりだったので、その訃報は一映画ファンとしてとても悲しかった。 ただ、同時に、彼がクリエイトした娯楽映画史上に残るポップアイコンを自らの手で息子に託し、亡き盟友ハロルド・ライミスに捧げた本作の公開を見届けて逝ったことには、運命的なものを感じた。  そういった映画作品にまつわる様々なメタ的要素も絡みつつ、“若い世代”によってクリエイトされた本作は、1984年の「ゴーストバスターズ」が公開された“あの時代”に子どもだったすべての大人たちのためのジュブナイル映画であった。只々楽しく、そして泣けた。  1984年にアイヴァン・ライトマンが監督した「ゴーストバスターズ」の文字通り正統な続編であり、あの大人気映画があったからこそ意味を成す作品であることは間違いない。 そういう意味で、今の時代に相応しいテーマ性やアイデア、新鮮味がある映画ではないかもしれない。  でも、何も新しい物事を追い求めることばかりが、“新しい映画”にあるべきことだとは、僕は思わない。 過去の優れた娯楽や芸術を、新しい才能で蘇らせることもまたクリエイティビティなことだと思う。 敢えて80年代当時の着ぐるみ的な質感を携えたゴーストたちの造形だったり、80年代の空気感を残す田舎町を舞台にしたことなど、明確な演出はしっかりと創造性を孕んでいた。  そして、「継承」というテーマを映画世界の内外で強く意識した作品であるならば、その価値は更に意義深いものになる。 父親が生み出した世界に愛されたポップアイコンを、偉大な父以上の一流映画監督となった息子が継承し、その映画世界の中では、“お化け退治”の知識と技術と勇気が祖父から孫へと継承される。 この映画製作における文脈そのものが、大変エモーショナルだったし、王道的にエキサイティングだったと思うのだ。  息子ジェイソン・ライトマン監督が映し出した「画」は、尽くエモーショナルで素晴らしかった。 主人公の少女が佇む何気ないカットから、ゴーストバスターズ専用車両“ECTO-1”が田舎町を疾走するカットに至るまで、すべてのシーンが叙情感に溢れていて、それだけでも「いい映画だな」と思わせた。  一方で、ストーリー展開的において踏み込めていない要素は正直なところ少なくない。 主人公の少女を始めキャラクターたちは皆魅力的だったとは思うが、現在に至るまでの背景的な描写が極めて希薄なので、彼らが成長したり変化したりすることに対する感動は上手く表現できていなかった。  主人公フィーヴィーを演じたマッケナ・グレイス、兄役のフィン・ウルフハード、友達となるローガン・キムら若いキャストたちはキュートでジュブナイル性に溢れていた。 人生において破綻寸前の母親のキャラクターや、片田舎の冴えない教師に甘んじる地震学者を演じた“アントマン”もといポール・ラッドも、良いキャラクター性を孕んでいたのだが、「活かしきれていない」という印象は拭いえない。  「JUNO/ジュノ」、「ヤング≒アダルト」等々、人生に打ちひしがれた人間ドラマでこそ卓越した手腕を発揮してきたジェイソン・ライトマンだからこそ、そういう“負け犬たちのワンスアゲイン”的なキャラクター描写に物足りなさを感じてしまったことは、もったいなく思う。  だがしかし、振り返ってみれば父アイヴァン・ライトマンが監督した「ゴーストバスターズ」も、決して完璧な映画などではなく、くだらない部分はどこまでもくだらなくて、ポップでライトな“ノリ”に溢れた作品だった。 その“ちょうどいい”娯楽感こそが、「ゴーストバスターズ」であり、やっぱり正しい「継承」だったのだと思う。 短い時間ではあるが、亡きハロルド・ライミスを含めたオリジナルの4人が揃い踏みし、その中でビル・マーレイやダン・エイクロイドが気の抜けたジョークを繰り広げる。 1981年生まれの映画ファンは、そのさまを観て、率直に「ああ、良かったな」と思えた。
[映画館(字幕)] 7点(2022-02-23 00:32:20)(良:1票)
69.  プロミシング・ヤング・ウーマン 《ネタバレ》 
キャリー・マリガンが好きだ。 類まれな愛らしさと、そこから滲み出るような薄幸と繊細な狂気。「ドライヴ」、「華麗なるギャツビー」、そして「SHAME -シェイム-」、どの作品においても、大スターの主演俳優を喰らう演技と存在感で魅了されてきた。 個人的には、随分と前から「最もアカデミー賞に近い女優」と確信してきたが、しばらく出演作の鑑賞機会がなかった。 久しぶりのキャリー・マリガン。少し年を重ねたその表情には一瞬見紛うたけれど、冒頭のシーン、泥酔(のフリ)からの狂気的覚醒に一気に釘付けになった。  女が、夜な夜な危険を犯してまで酔っ払った男たちへの復讐を無差別に繰り返す理由。それは、男、そして過去に対する終着なき怒りと復讐。 世の中のすべての男たちの過ぎ去った泥酔の夜に、恐怖と後悔と懺悔を。  一人の女の狂気的な怒りを描きぬいた振り切ったストーリーテリングが白眉で、その狂気そのものを体現するかのような主演女優が素晴らしい。 実際、話の筋は突拍子もなく強引だが、それをまかり通しているのも主人公の特異なキャラクター性とそれを演じきったキャリー・マリガンの表現力そのものだろう。  最終的な顛末は、決してハッピーエンドなどではなく、きっぱりと最悪な悲劇だ。(気恥ずかしいくらいの多幸感に溢れたドラッグストアでのデートシーンが「残酷」への前フリであることは明らか……) にもかかわらず、心の中では一抹の爽快感みたいなものがジワジワと広がる。その感覚がとても奇妙でもあり、フレッシュでもあった。   正直なところ、自分自身、思い出すこともはばかられる泥酔の夜は記憶の片隅に存在する。 その薄ぼんやりとしていた後悔を、血みどろの輪郭で浮き上がらせるような、そんなキケンな映画だ。   P.S 主人公の優しい父親役のクランシー・ブラウン、絶対なにかの映画の「悪役」で見たことあるなあと思っていたら、「ショーシャンクの空に」の悪徳刑務官の俳優だった。
[インターネット(字幕)] 8点(2022-02-05 09:24:54)
70.  ハウス・オブ・グッチ
“GUCCI”を手にしたことも無い僕は、本作の鑑賞後、このブランドが辿ってきた歴史を取り急ぎググらなければならなかった。 それは、映画が描き出したストーリーの背景が分からなかったというよりも、“GUCCI”というブランドにまつわるあまりにも苛烈で悍ましい人間模様に対して興味を抑えることができなかったからだ。 「HOUSE OF GUCCI」 そのタイトルの通り、この映画は、壮絶にして残酷な“或る家族”の物語だった。  「事実に着想を得た物語」と冒頭にクレジットされていたが、エンドロールを迎え、この映画が描き出された顛末のどこまでが「事実」なのかと戸惑いと驚きを隠せなかった。 手にしたことがなくとも、「GUCCI」というブランド名は、無論世界中の誰もが知っている名称であり、個々人の趣向に関わらず、一つのステータスの象徴だろう。 そんな世界的ブランドの創業家において、これほどまでに衝撃的な御家騒動が巻き起こり、文字通りの“崩壊劇”を経ていたとは。しかもそれが、80年〜90年代という極めて近しい時代の出来事であることに愕然とした。  殺人という明確な「重罪」をも含めたこの壮絶なスキャンダルを、すべての固有名詞を実名で描ききる豪胆さ。 この手のノンフィクション的な物語に対するアメリカの映画産業は、常に意欲的で、その強さを改めて思い知った。 そして、当のGUCCIは、作品に対して“猛反発”をしているとは言うが、それでも間接的に許容していなければ、劇中のすべての固有名詞、そして必然的に映し出されるブランドの製品、デザイン、アイコンを使用することは不可能だろう。 そういう意味では、本作に対する現在のGUCCIの世界的ブランドとしての気概と、過去の歴史との“決別”に対する強い思いも感じる。   御年84歳の大巨匠リドリー・スコットのクリエイティビティは、衰え知らずというよりも、ここにきて益々冴え渡っているようにすら思える。 一つの家族における暗鬱とした人間模様を、いたずらに重くしすぎることなく、ドライに、ユーモラスに、エキサイティングに、圧倒的なエンターテイメント性を孕みながら創造している。 そこに集ったオールスターキャストも、華やかであると同時にあまりにも愚かな“親戚一同”を表現しきっている。  その中でも特筆すべきはやはりレディ・ガガだろう。 現実に起こったこの華麗なる一族の崩壊劇の中で、唯一無二の「悪女」として人々に記憶されているパトリツィア・レッジアーニという女性。 すべての“元凶”とされた彼女が主人公であるこの映画世界の中で、演じたレディ・ガガは、あらゆる意味で「支配」しており、圧巻の演技を見せている。 冒頭の登場シーンから、ラストの「グッチ夫人と呼びなさい」まで、表現者としてのその支配力は圧倒的だった。  最終的に紛れもない「重罪」を犯したこの女性に対し、擁護の余地はないだろう。しかし、すでに凋落の一途を辿っていたグッチ家にとって、パトリツィアという一人の女性の存在は、避けられない分岐点だったように思えた。 パトリツィアがもたらした功罪によって、結果的にグッチ家は崩壊したが、何かが少し異なれば、全く別の顛末もあったのかもしれない。  一族の崩壊の中心に存在した悲しき“夫婦”。 冒頭のシーンでは、燃え上がる愛情の赴くまま壁に叩きつけるような激しいセックスを見せる。そして時が経ち、今度は冷え切った愛情の表現として、夫は妻を壁に叩きつける。 彼らが見せたその“愛”の有り様は、あまりに無情で、心が締め付けられた。  暗殺の直前、あらゆるものを失ったグッチ家の男は、オープンテラスでエスプレッソを飲みながら何を思い、何を思い出して微笑んだのだろう。 あのセックスの激情に偽りは無かった。でも、どこかで何かを間違えてしまった。 それは、世界中のどの夫婦、そしてどの家族にも起こり得ることだろう。
[映画館(字幕)] 9点(2022-02-03 21:58:43)(良:1票)
71.  スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム 《ネタバレ》 
“この”「スパイダーマン」シリーズのタイトルに、3作続けて用いられてきた「Home」というワードの意図。 それは即ち、この物語の主人公の“少年”には、帰るべき“Home”があり、“Home”に守られていたということ。 そして、彼はついに自身の運命に課せられた「力」の大きさと、それに伴う「責任」の大きさを痛感し、受け入れ、一人“Home”を旅立つ。 或る一人の“少年”が、力を得て、偉大なヒーローたちと共に世界を幾度も救った後に、“大人”になる。それが、トム・ホランドが演じた“ピーター・パーカー”の物語であり、“スパイダーマン”だった。  「キャプテン・アメリカ/シビル・ウォー」で、アベンジャーズに“ルーキー”として初参戦したスパイダーマンは、まさしくフレッシュで、決裂の重々しい空気感に包まれたヒーローたちの中で確固たる重要な“娯楽性”だった。それを演じるトム・ホランドの若々しいスター性も魅力的だった。  だがその一方で、トム・ホランド版スパイダーマンとしての新シリーズ化に対しては、個人的に“モヤモヤ”した気持ちが拭えなかった。 その理由は明確だ。僕は、2000年代に誕生した“2人のスパイディ”が大好きだったからだ。そしてその各シリーズにおける消化不良な結末(打ち切り)に対して、ずっと“満たされない”ままだったからだ。  特に、マーク・ウェブ監督、アンドリュー・ガーフィールド主演の「アメインジング・スパイダーマン」シリーズは、「2」におけるあまりにも悲痛で衝撃的な顛末も含めて、今なおアメコミ映画史に残る傑作だったと確信している。 がしかし、あの「悲劇」の後に製作される予定だった完結編が日の目を見なかったことは、それこそが「悲劇」だったと思う。   ただそれでも、MCUにおけるトム・ホランド版スパイディは、その立ち位置の価値と魅力を放ち続け、ジョン・ワッツ監督による単独のシリーズ作も快作続きだった。 アンドリュー・ガーフィールド版、そして現在のアメコミヒーロー映画ブームの礎ともなったサム・ライミ監督によるトビー・マグワイア版の“2人のスパイディ”に負けず劣らずの愛着を深められていたと思う。  そういうわけで、故・トニー・スタークの後継者としても、トム・ホランド版スパイディの成長を見届けようと本作に臨んだ。 ドクター・ストレンジと共に“マルチバース”の世界観に突入し、“次元”を超えた過去のスパイダーマンシリーズのヴィランたちが大集合するという“事前情報”は、それだけで高揚感が極まった。  そう、それだけで、この映画は「最高」だったのだ。  しかし、それ以上の“スペシャル”が本作には用意されていた。 “2人のスパイディ”がワープゲートをくぐり抜けてやってくる。 まさか、まさか、まさかの「最高」の3乗。映画館のシートで、思わず「やば…!」「すご…!」と連続で呟いてしまい、感嘆が止まらなかった。  トビー・マグワイア、アンドリュー・ガーフィールドの両俳優が、それぞれ現在の姿で、時を経た“ピーター・パーカー”を再演する。 彼らが、自身のスパイダーマンとしての経験と悲しみを踏まえて、かつての自分たちと同様に悲痛と絶望に沈む若きスパイディを導き、救う。 そして、その“スパイダーマンズ”による「共闘」の中で、先輩スパイディたち自身も、それぞれの運命(シリーズ)の中で、我々映画ファンと同様に消化しきれていなかった“思い”に禊をつけていく。  何というドラマティック、そして何という映画的奇跡。 まさに次元と時間を超えた、ストーリーの収束とカタルシスに、涙が止まらなかった。   3本の強靭な蜘蛛の糸が縦横無尽に交錯し、多層的な幾何学模様形成していく。そのさまは、複雑で果てしない“マルチバース”の世界観の深淵を描き始めるに当たって、あまりに相応しい。
[映画館(字幕)] 10点(2022-01-08 13:07:58)
72.  ゴジラvsコング 《ネタバレ》 
今作は、或る意味、正統で真っ当な1962年の東宝映画「キングコング対ゴジラ」のハリウッド映画化と言えるだろう。  思い起こしてみれば、“モンスターバース”と銘打たれたこのハリウッド版“GODZILLA”シリーズは、“アメリカ”という国ででゴジラ映画を愛し続けてくれた映画人たちが、その“オタク魂”を遺憾なく発揮し続けたシリーズとも言える。 だからこそ僕は、これまでのシリーズ作において、“核の取り扱い”の一点において拭い去れない「嫌悪感」を示しつつも、製作陣のゴジラ映画やそれに付随する数々の特撮映画に対する「愛」を感じずにはいられなかったし、本多猪四郎や円谷英二、伊福部昭ら、東宝特撮映画のクリエイター達に対する尊敬の念に裏打ちされた映像世界に圧倒されたことを否定できなかった。  そういう意味で捉えるならば、この最新作もとい“モンスターバース”の一つの終着作とも言える今作も、ゴジラ映画や東宝特撮映画に対する「愛」に溢れた映画だと言えるだろう。  ただし、だ。今作の場合、その表現方法が、あまりにも「馬鹿」過ぎた。 その“馬鹿さ加減”も含めて、1962年の「キングコング対ゴジラ」だと言われれば、全くその通りなのだけれど、ただただひたすらに、その馬鹿さ加減のみが、地球3周くらい回って勢いがついた挙げ句にひっくり返って、無様にのたうち回っているようだった。  SF映画や怪獣映画として、“ストーリー”と呼べるものはまるで無く、「馬鹿」といか言いようがない登場人物たちが織りなす行きあたりばったりなストーリー展開が延々と続く印象を覚えた。 ゴジラとキングコングの文字通りの「肉弾戦」のビジュアルは流石に凄まじかったけれど、本当にどうかしていると思えるくらいにストーリー的な上手さやドラマ性が皆無なので、決戦描写が激しくなればなるほどに、どこか鼻白んでしまった。  クライマックスである香港決戦の描写や、地球空洞説を踏まえた空想科学要素は、個人的に好ましいエンターテイメント要素ではあったけれど、よくよく考えてみれば完全に「パシフィック・リム」の二番煎じでもあり、決してフレッシュではなかった。  そして今作のストーリーテリング上では“サプライズ”として登場する“メカゴジラ”も、何とも不格好でダサく、あまりにも魅力的でなかったことが傷口に塩を塗り込んでいる。 モデリングの醜悪さもさることながら、それを創り出し操っている人間が馬鹿すぎるので、メカゴジラの存在意義自体があまりにも希薄だった。 そもそも前作で登場したキングギドラの骨(DNA)をベースにしているのならば、“メカキングギドラ”でいいじゃん!と、「ゴジラVSキングギドラ(1991)」の大ファンとしては思わざるを得ない。 (そして、小栗旬の役柄の不憫さったらない……)   と、呆れて物が言えないくらいの不満を覚えながら、改めて思い知ったことは、アメリカ人にとっての「ゴジラ映画」とは、まさに今作のベースである「キングコング対ゴジラ」以降の、“怪獣プロレス”を延々と繰り広げた昭和ゴジラシリーズに尽きるのだろうということ。 彼らにとって「ゴジラ」とは、どこまでもいっても“核が生み出したヒーロー”であり、それは即ち自らが生み出したこの星の“都合のいい守護神”なのだ。  実際に、プロレスブーム全盛の昭和ゴジラシリーズが存在し、アメリカのオタクたちが愛した怪獣映画がそれらである以上、その結果生み出された映画を「否定」することはもはやお門違いなのかもしれない。 それでも、日本のゴジラ映画ファンの一人として、この映画が、馬鹿馬鹿し過ぎる作品であることは否定できないし、玉石混交のゴジラ映画シリーズの中においては、或る意味今作もその系譜に相応しい作品と言えると思う。   この「落胆」は、この国のゴジラ映画ファンとして、むしろ「安堵」と言えるものかもしれない。 「シン・ゴジラ」を特異点として、日本国内のクリエーターたちにおける“ゴジラ”に対する創造性は、「新解釈」と共に益々多様的に展開している。 アニメ映画版三部作や、今年(2021)Netflix配信されたアニメシリーズ「ゴジラ S.P」はその顕著でエキサイティングな産物だろう。  どれだけ莫大な予算や映画的人材を駆使したとしても、「ゴジラ」だけは、日本でしか描きぬくことができない。それは、この国の映画文化が最も誇るべきアイデンティティの一つなのではないかとすら思える。
[映画館(字幕)] 2点(2021-12-31 15:47:02)(良:1票)
73.  ドント・ルック・アップ
こんなにも笑えないブラックコメディは初めてかもしれない。 「今」この瞬間の世界の実態を詰め込んだような強烈な社会風刺と、世界の終末。 登場人物たちと、彼らが織りなす社会の滑稽さが極まるほどに、“笑う”余裕などなくなり、胸糞悪さを超えて、もはや恐怖を感じてくる。 それは即ち、この映画の風刺が、決して過度にデフォルメされた描写ではないことに他ならない。  世界の危機よりも自身の保身を案じる米国大統領、タレントのスキャンダルに興じ科学者の訴えを無下にする報道番組、世界の決断をも牛耳る巨大IT企業、そして、自らで考え判断することを放棄してしまっているすべての大衆……。 それはまさしく、可笑しさと、愚かさと、悍ましさが共存する、この「地球」と「人間」の姿そのものだった。  ハリウッドのトップ・オブ・トップのオールスターキャストが、この壮大な風刺映画を強烈に彩っている。 主演のレオナルド・ディカプリオ、ジェニファー・ローレンスをはじめとして、そうそうたる面々が、馬鹿な人間像を嬉々として演じきっている。 メリル・ストリープ、ケイト・ブランシェット、マーク・ライランスら押しも押されもせぬ名優たちが揃いも揃って人間の愚の骨頂を表現するさまは、この映画の品質と娯楽性を高めると同時に、決して看過できない危機感を如実に創出していたと思う。(惜しげもなく全裸シーンを披露する72歳の大女優には脱帽!)  Netflix配信映画として全世界同時公開された今作は、あらゆる意味でこの「時代」に相応しい作品だった。 不都合な真実、面倒な現実から目を反らして、どこかの誰かの思惑に取り込まれていることを、無意識レベルで甘受してしまっているこの世界。 まるで藤子・F・不二雄のSF短編漫画のような手軽さと、それと相反する多層的な面白さと辛辣さが満ちていた。 タイトルバックで映し出されるジェニファー・ローレンスの嘔吐カットで表されている通り、時に吐き気をもよおすほどの醜悪さも感じるブラックコメディだったが、この映画の在り方は圧倒的に正しい。  これが地球、最高で最悪。
[インターネット(字幕)] 9点(2021-12-31 14:57:37)(良:1票)
74.  ワイルド・スピード/ジェットブレイク
「ワイルド・スピード/ジェットブレイク」という邦題だとつい忘れがちになってしまうが、「Fast & Furious 9」という原題を見ると“第9作目”という事実に少々唖然としてしまう。 「007」のようにキャストが刷新されたり、「スター・ウォーズ」のように章立てられた物語が時代を跨いで続いているシリーズは思いつくが、単一の時系列の中でほぼ同じ主要キャストによってシリーズ作が作り続けられているハリウッド大作が他にあるだろうか。 無論、人気のない作品がこれほどシリーズ作を積み重ねられるわけもなく、紆余曲折を経ているとはいえ、世界中から愛されている映画であることは、先ず称賛されるべきだと思える。  かくいう自分自身も、この娯楽大作シリーズを愛するファンの一人であり、最新作を楽しみにし続けている。 ファンとして敢えて断言するが、9作目にして完全なる「バカ映画」が爆誕している!と思う。 いや、とうの昔からバカ映画シリーズなんだけれども、本作はいよいよそのバカさ加減のメーターが振り切っている。  ストーリー展開や、物語のおける過去作との整合性云々は、もはや突っ込みだしたら泥沼にハマってしまうのでやめておこう。 そんなことよりも、味方のキャラクターが生身でどんなに吹き飛ばされても車のボンネットや天井で受け止めたら無傷で済むという謎ルールや、世界各国の路駐されている車はすべて無人で破壊し放題という治外法権ぶりや、宇宙航行を可能にする車体の超科学的頑丈さ等々を、「磁力最強!カッケー!」言いながら馬鹿になって楽しむべきだ。  そして、世界中の映画ファンが悲しみと共に納得し、諦めているのに、それでも彼の名前を呼び、彼の“席”を空け、彼を生き続けさせるこの映画のあまりにも熱い「家族愛」を見せつけられては、どんなにバカ映画の連作となろうとも、僕はこの映画シリーズを愛さずにはいられない。
[インターネット(字幕)] 6点(2021-12-30 15:27:55)(良:1票)
75.  シャン・チー/テン・リングスの伝説
正直なところ、この映画に対するファーストインプレッションは“微妙”だった。 マーベル・シネマティック・ユニバース(MCU)の中に突如登場した東洋人ヒーローには、同じ東洋人としても違和感というか、強引な印象を禁じ得なかったし、チャイニーズマーケットに対するあからさまな“目配せ”のようにも感じてしまい、素直に期待感を高めることができなかった。 カンフー映画も、チャイニーズアクションも幼少期から慣れ親しんでおり大好きだけれど、それがMCUの世界観の中でどう成立するものかと甚だ懐疑的だったことは否めない。  が、しかし、意外にもというか、案の定というか、蓋を開けてみれば、本作はMCUの娯楽映画としてしっかりと楽しく、きっちりと成立していた。勿論ちゃんとした“カンフー映画”として。 もはや何度目か分からないが、MCUというブランドに対して、「流石かよ」と感心せずにはいられない。  MCUが二十数作にも渡って築き上げてきたエンターテイメントの“フォーマット”にチャイニーズアクションを重ねただけと言ってしまえばそれまでだが、世界の映画ファンが見たいアジアンアクションの要素を盛り込み、「娯楽」を追求し、実現していることは映画製作において“正義”だ。  本作が、MCUのフェーズ1とかフェーズ2あたりに挟み込まれていたら、それは流石に作品として浮いてしまっていただろう。けれど、ユニバースを広げ続け、あらゆる価値観や宇宙観をも取り込んでいく「多様性」こそがシリーズ全体のテーマになっている現在のフェーズ4においては、本作が描き出す異文化と異次元のストーリーテリングは、まったくもって許容範囲であり、もはや必然的にすら感じる。 アメリカ社会におけるアジア人の境遇や職業面の描き方も、さり気なく問題意識が提示されていたと思う。  キャストにおいては、主人公シャン・チーを演じたシム・リウが、正真正銘の「無名」の状態からMCUという巨大な映画ブランドの“ニューヒーロー”として登場した経緯がメタ的な要素も含めて非常にエキサイティングだ。 ビジュアル的にも決して華やかさのないこの新人俳優を大抜擢し、ニューヒーローのキャラクター像を文字通り“ゼロ”から構築していく展開が、一映画ファンとしてとても熱かった。  そして脇には、トニー・レオン、ミショル・ヨーらアジアが誇るスーパースターを的確にキャスティングし、作品としての安定感と説得力を高めている。 特に、長らく数々の作品で、トニー・レオンという俳優の色香に酔ってきた映画ファンとしては、危うく、妖しく、脆く、秘められた慈愛が混濁した本作のキャラクター性は、彼の俳優としてのキャラクター性とキャリアに相応しい適役だったと思える。 トニー・レオンが演じたシュー・ウェンウーは、本作で絶命したが、“テン・リングス”の力によって1000年生きてきたことや、そもそも彼が“テン・リングス”を手に入れた経緯など、まだまだ描ききれていない要素は多々あるので、再演を望みたい。  兎にも角にも、カンフー映画を礎にし、“ワイヤーアクション”や“ドラゴンボール”までもフォローして、MCUは益々その世界観を広げていく。
[インターネット(字幕)] 7点(2021-12-27 22:24:19)(良:2票)
76.  ヴェノム:レット・ゼア・ビー・カーネイジ 《ネタバレ》 
中盤、主人公のエディと“彼に居候”するヴェノムが殴り合い罵り合いの大喧嘩を繰り広げる。 ヴェノムは部屋を半壊させた挙げ句、エディが大切にしていたテレビとオートバイをこれ見よがしに破壊して、なんとエディの体から出ていってしまう。 寄生生物が宿主の体から怒り任せに“家出”してしまうという“反則技”。 ただ、このシークエンスこそが、今作において実はハイライトであり、今作が前作に対して大きく進化したポイントだった。  前作は、マーベル・コミックの中でも人気の高いスーパーヴィランでありダークヒーローでもあるヴェノムを、ファンも納得のビジュアルとキャラクター性で映し出していたとは思う。 主人公エディとヴェノムの両方を演じたトム・ハーディのキャスティングもナイスだった。  ただし、前作には看過できない大きな欠落要素があった。 それは、エディとヴェノムの間に生じてほしかった“キャッキャ感”だ。 主人公の体に無理やり寄生(居候)し、文字通り一人芝居の丁々発止の掛け合いを繰り広げながら、危機に打ち勝っていく。 このダークヒーローの映画化に当たって最も重要な娯楽要素はその部分であり、前作ではそれが無かったとは言わないが、圧倒的に物足りなかった。  前作は新ヒーローの誕生を描く一作目ということもあり、諸々の設定や説明描写に尺を割かざるを得なかったという限界もあっただろう。 だが、続編である今作は、そういった説明的描写はすっとばして、すっかり“共同生活”にも慣れた二人の息のあった掛け合いを序盤から見せてくれていた。  映像技術を駆使した“二人羽織”のようなキャラクターを体現したトム・ハーディのパフォーマンスは前作に引き続き良かった。トム・ハーディは脚本にも参加しているとのことなので、この作品、このキャラクターへの愛着が、鑑賞者にとっても愛すべきキャラクター像として昇華されていたと思う。  そして、監督を務めたアンディ・サーキス。 モーションアクターとして2000年代から現在に至るまで数々のキャラクターを表現し続けてきたこの特異な俳優は、今作で監督としても見事な手腕を発揮している。 撮影開始時の掛け声からも明らかなように、映画監督の仕事において、最も重要なことは、俳優に“アクション”を付けるということだろう。 そのためには、人間がどういう風に動き、そしてどういう風に見えるのかということを熟知していなければならず、その点において、数々の映画で人間のみならず多種多様な生物を演じ続けてきたアンディ・サーキスが秀でていることは明らかだ。 エディ+ヴェノムという特異なキャラクターが、前作にも増して愛着あふれるキャラクターに進化した背景には、そういう監督の適性も如実に反映されていると思う。   俳優とキャラクター、そしてキャラクターと監督、諸々の要素がフィットし、高められ、求めるべき娯楽性に特化した今作は、問答無用に楽しい映画に仕上がっていると想う。 ストーリー的にも、キャラクター的にもまだまだ深まるであろうシンクロ率が、このシリーズのエンターテイメント力を高めていくことは間違いない。 そして、ついには、次元とメタ的なしがらみを超えたあの“隣人”とのクロスオーバー。そりゃワクワクが止まらんよ。
[映画館(字幕)] 8点(2021-12-21 23:29:13)
77.  エターナルズ
極めて壮大で、美しく、そして同時に「未完成」な映画作品だと思った。 それは決してこの作品そのものの完成度が“低い”ということではなく、この新たなヒーロー映画を通じて表現し伝えようとした「テーマ」そのものが、この現実世界において未成熟であることの表れではないかと思った。 そして、この世界は常にそういう“不完全な美しさ”の中に存在し続けるものなのではないかとも思えた。  実は7000年前から地球人を見守っていたという“守護者たち”が主人公のこの映画は、これまでのアメコミヒーロー映画の系譜の中でも極めて異質で、“フェーズ4”に突入した“マーベル・シネマティック・ユニバース(MCU)”の大河の中においても「特異点」となり得る作品だと思う。 異なったあらゆる「性質」を持つヒーローたちが戦い、惑い、運命を体現するこの映画のテーマはまさしく「多様性」。 神か、天使か、それとも悪魔か、いずれにしても存在性そのものが神秘的でファンタジックなヒーローたちではあるが、彼らがそれぞれのキャラクター性を通じて表現していたものは、この星に巣食う「人間」の葛藤と苦悩そのものであり、あまりにも普遍的なものだった。  能力、性格、身体的特徴、得手、不得手、様々な要素が異なる彼らは、不完全で、時に脆い。 ただし、だからこそ、“エターナルズ”として「結束」した時に生み出された力は強固で果てしない。 それは、今まさにこの現実世界で声高に求められ、命題となっている我々のテーマ性と合致する。  だが、その現実世界で命題となっている「多様性」そのものが、まだまだ曖昧で、あるべき世界、たどり着くべき価値観が定まっていないから、その表現方法自体が、ある側面において表面的で類型的になってしまっていることも否めない。 「多様性」を謳う映画であるが故に、そこで表現されるテーマに強烈な違和感や希薄さを覚える人も少なくないだろう。  ただ、未熟で不完全であるからこそ、この新しく難しいテーマをマーベルのヒーロー映画の中で表現しようとした試みそのものは、正しくて、意義深い。   そしてその監督に「ノマドランド」で非白人女性として初めてアカデミー監督賞を受賞したクロエ・ジャオを起用し(オファーはアカデミー賞受賞前)、そのクリエイターとしての資質を存分に発揮させてみせたマーベルの先見性と懐の深さには、あいも変わらず感心する。  テーマ性に相応しい多彩なキャスティングも印象的だった。 年齢や人種、国籍を超えた多様なキャスト陣は、それぞれのキャラクター像を見事に表現し、あたかも「家族」のようなチーム感をこの一作のみで構築して見せていた。 個人的に特に印象的だったのは、文字通り神々しくてそれ故に危なっかしいアンジェリーナ・ジョリー演じる最強戦士“セナ”。 アンジーのMCU初参戦そのものが映画ファンとしては熱いが、最強故に精神を乱していく様は、彼女自身が女優としての地位を確立した1999年のアカデミー助演女優賞作「17歳のカルテ」を彷彿とさせ感慨深かった。(更に、マ・ドンソクとの最強カップルは近年随一のペアリングだった!)   はてさて、MCUが広げる“大風呂敷”は、いよいよ際限がなくなってきたようだ。 原作である数多のアメコミ作品のクロスオーバーの範疇を超えて、現実社会、さらにはこの先の未来世界にまでその視野を広げようとしているようにすら感じる。 量産されるドラマシリーズも含めてすべてを追いきれなくなっていることは、MCUファンとして焦るところだが、決して世界観が破綻しないであろうことに対するMCUへの信頼は揺るがない。  “完璧ではないもの”に対する寛容と、その多様性を愛することの価値。 この「未完成」な映画を新たな特異点として、この「宇宙(ユニバース)」は広がり続ける。
[映画館(字幕)] 8点(2021-12-04 12:49:41)
78.  DUNE デューン/砂の惑星(2021)
映画史における伝説や逸話が、何十年にもわたって先行し、流布し、世界中の映画ファンの「期待値」があまりにも大きく肥大したこの映画企画に挑み、“作品”として創造してみせたことを、先ずは称賛すべきだろうと思う。  ドゥニ・ヴィルヌーブ監督は、「メッセージ」や「ブレードランナー2049」でも見せたその芸術性の高さと、芳醇なイマジネーションを最大限発揮し、“DUNE”の世界観を見事にクリエイトしている。 この映画監督の素晴らしさは、ただ単に芸術的な画作りができるということではなく、絵画のように研ぎ澄まされた映像表現が、ストーリーを紡ぐ登場人物たちの感情や人生観にきちんと直結していることにある。 どこかのインタビューで、ヴィルヌーヴ監督自身が力を込めて話していた通り、映画製作における最優先事項は、映像の美しさや音響の素晴らしさではなく、その根幹に存在すべき人間の“ストーリー”なのだ。 そういう映画作りにおける本質を、圧倒的な創造性の中で表現できるこの映画監督の立ち位置は、今後益々孤高のものとなっていくだろう。  そして、本作も、そのヴィルヌーヴ監督の孤高の創造性に裏打ちされた見事な映画作品だった……とは思う。  ただし、この映画が、映画史における複雑に入り組んだ文脈、そこに深く絡む期待と宿命、それによるあまりにも高くそびえる“ハードル”を超える作品であったかと言うと、そこは「否」と言わざるを得ない。     僕自身は、本作で初めて“DUNE”の世界観に触れたのだが、1965年に発表されたSF小説「デューン 砂の惑星」と、その「映画化」への挑戦の歴史が、その後に創造されたあらゆる作品に多大な影響を与えていたことはよく理解できた。  製作開始直前にとん挫した1970年代の映画化企画による“遺産”が、その後の「スターウォーズ」や「エイリアン」に大きな影響を与えたことは言わずもがなだろうし、映画の構造としては、「マトリックス」や「ロード・オブ・ザ・リング」や「アバター」も、その系譜の上にあることは間違いない。 日本の作品に目を向けると、「風の谷のナウシカ」がその筆頭だろう。 描き出された未来世界のビジュアル、文化、慣習、人々の価値観や相関図に至るまで、あらゆる側面が色濃く影響していたことは明らかだった。  今回の映画化作品が、上述の歴史的大作の数々に匹敵するポテンシャルと魅力を備えていること自体は疑いようもない。  ただ、それらの作品が映画史上において果たしたような「革新」が、本作そのものに備わっていたかと言うと、残念ながらそれは無かったと思える。 壮大で果てしない映像表現も、体の奥底まで響き渡るような音響表現も、その上で息づく人物たちの深い生き様も、映画作品として最高水準のものであったことは間違いないけれど、そこに、心が沸き立つような映画的革新を感じることはできなかった。  「革新」を宿命づけられるなど、そもそもが無理難題なのだとは思う。 「スターウォーズ」にしたって、「マトリックス」にしたって、時代の中でふいに誕生したからこそ、その驚きと共に「革新」に至るのであって、予定調和の上の革新などあるわけがないのだ。 そういう意味で本作は、もしかするとたとえ「傑作」だったとしても「失敗作」という寸評から逃れられないあまりにも重い宿命を背負った作品だったのかもしれない。  だからこそ、その無理難題に果敢に挑み、映画作品として仕上げて見せたこと自体が素晴らしい成果だったと思う。 そして、その成果は、この後製作される“PART 2”によっていかようにも転じるだろう。 大きく上方修正されて、改めて革新的な「名作」として映画史に残るかもしれないし、逆に「駄作」として人々の記憶に残る結果に終わるかもしれない。  めでたくも続編の製作は決定しているらしいので、映画ファンとしては引き続き心待ちにしたい。 ラスト、主人公本人の台詞で明言された通り、この“伝説”は「始まったばかり」なのだから。
[映画館(字幕)] 7点(2021-11-09 21:49:44)
79.  ジェントルメン(2019)
「ロック、ストック&トゥー・スモーキング・バレルズ」から23年、「スナッチ」から21年も経つのかと、少々感慨深さを感じると共に、「変わらんな、ガイ・リッチーは」とまず思った。 見慣れたスローモーションやスピードランプによるアクション描写はもはや懐古的ですらあったが、この映画監督が生み出す軽妙(悪ノリ)な犯罪映画のテイストは、既に英国映画の文化と言ってもいいだろう。 英国の“悪童”の健在ぶりにひとまず安心した。  マシュー・マコノヒーを主演に迎え、アクの強い個性的な悪党どもが騙し合い、罵り合い、殺し合うストーリーテリングは、やはり「ロック、ストック〜」や「スナッチ」を彷彿とさせた。 大麻王の引退に伴う利権争いを軸にしたストーリーそのものは、シンプルで、特に新鮮味があるわけではなかったと思うが、ヒュー・グラント演じる悪徳私立探偵による虚実織り交ぜられた“狂言回し”よって進行する展開は、その真偽性を含めて面白みがあったと思う。(ヒュー・グラントはこのところ汚れ役がすっかり板についてきて良い) その他のキャラクターでは、コリン・ファレル演じる格闘技ジムの“コーチ”が、人徳者であると同時に実は地味にしっかりとイカれていて良かった。彼が率いるアマチュア格闘技集団の馬鹿っぷりと、彼らによる“騒動”が作品の中の良いアクセントになっていた。  というわけで、“ガイ・リッチーの映画”として、期待した楽しさは備わっていたし、大きなマイナスポイントがあるわけではない。 けれど、かつてこの監督が生み出した前述の傑作たちと比較すると、やはり一抹の物足りなさは残る。 群像劇として登場するキャラクターそのものは良かったけれど、配役的にはもう少し華が欲しかったかもしれない。 マシュー・マコノヒー、チャーリー・ハナム、コリン・ファレル、ヒュー・グラントと、十分の豪華ではあるが、あと一枚か二枚、登場シーンは短くても良いので、大スターが“カード”として揃っていたならばと思う。 例えば、同監督作「シャーロック・ホームズ」主演のロバート・ダウニー・Jrなんかがキャスティングされていたならば、エンターテイメントの質は大きく上がっただろう。  個人的に一つ明確に不満だったのは、主人公の妻役のミシェル・ドッカリー。冷酷な大麻王である主人公が一転して溺愛する愛妻役としては、今ひとつパンチが無かったと思う。ストーリーのキーとなり、大立ち回りもある役どころだっただけに、もっと女優として華やかなキャスティングが欲しかったところだろう。当初はケイト・ベッキンセイルで進んでいたらしいので残念。  と、少々不満があるにはあるが、ガイ・リッチー監督には引き続き彼らしい犯罪娯楽映画を作り続けてほしい。 とりあえず久しぶりに「ロック、ストック&トゥー・スモーキング・バレルズ」でも観ようかな。
[インターネット(字幕)] 6点(2021-11-03 09:18:07)
80.  最後の決闘裁判
リドリー・スコットの最新作は、中世フランスで実際に起こった出来事を描いた意欲的な「裁判劇」だった。 真相が分からない裁判事案を「決闘」で決着させて、負けた方は火あぶり+吊し上げという当時の法制度のあまりの乱暴さと残虐性もさることながら、そこに被害者である「女性」の権利や主張は殆ど存在せず、男性社会の愚かな虚栄と身勝手な欲望のみが交錯していく様が、極めて醜く、この作品の主題に対する忌々しい「嫌悪感」を創出していた。  今作は三幕構成で描き出されており、最終的に“決闘”を行う男(騎士)二人、そして暴行を受けた女(騎士の妻)の3人の視点で同じシークエンスを辿るストーリーテリングが面白い。 その構成とストーリー性から、黒澤明監督の「羅生門」にインスパイアされていることは明らかで、実際、脚本を担ったマット・デイモン&ベン・アフレックによると、多分に影響を受けたらしい。 まさに“藪の中”の真相が、3人の視点によって描きされることで詳らかになっていく様は興味深かった。  そして、男性側の愚かで都合の良い解釈や言動が、実際女性目線からはどのように映っていたのか、その“乖離”が目の当たりにされることも、興味深さと嫌悪感を覚えると同時に、僕自身一人の男性として、また一人の夫として、身につまされる思いだった。 男性としての何気ない言葉や、態度が、女性に対して何かしらの精神的苦痛を生んでしまっているかもしれないということを、一人ひとりの男性がもっと理解しなければならないのだと思う。  「時代」は常に刷新され、新しい価値観や常識が広がっているとはいえ、この世界や社会において、まだまだ旧態依然としている要素は数多あり、この作品で描き出された醜悪な出来事が「遠い昔の絵空事」とは言い切れない。 こういう時代の上に、今の世界は存在し、今なおその暴力的な理不尽を残し続けているということを、認識しなければならないと思う。   リドリー・スコット監督にとって、中世の史劇を圧倒的なリアリティと創造性によって描き出すことは、もはやお手の物だろうけれど、齢83歳とは思えないそのクリエイターとしてのアグレッシブさには、毎度のことながら感服する。 対峙する二人の騎士を演じたマット・デイモン、アダム・ドライバーは、それぞれ「流石」の一言に尽きる存在感と実在感をもって、時代性を象徴する二つの“男性像”を体現することで、絶妙に胸くそ悪い“糞野郎”を演じきっていた。 そして、その狭間で、女性としての尊厳を守るために“声”を発した妻マルグリットを演じた新星ジョディ・カマーも、美しさと強かさを併せ持つ印象的な存在感を放っていたと思う。 また、享楽的ながらも支配者的能力に長けた領主ピエール伯を厭味ったらしく演じたベン・アフレックも好演しており、デイモンとの共同執筆の脚本とともに、作品に深みを与えていたと思う。   ただしかし、非常に映画的なクオリティーが高く、意欲的な作品だったのだが、だからこそ感じた一抹の物足りなさも否定できない。 気になった最たるポイントは、この物語の真の主人公であるべき、マルグリットのキャラクターの描きこみがやや希薄だったのではないかということ。 三幕構成の最後のパート(真実)が、彼女の“視点”で描かれるわけだが、彼女の人間性を描き出すに当たっては、もう少し深堀りしてほしかった。 どのような生い立ち、どのような心境で政略結婚の“道具”にされたのか、二人の男や、実父、姑らに対して本当はどのような感情を抱いていたのか。 そして、決闘裁判を経て、子供を生み、結果彼女は何を得て、何を失ったのか。 そういう主人公の「女性」に対する描き込みがやや物足りなかったので、作品の性質やクオリティレベルのわりに、映画全体がやや淡白で軽薄な印象になってしまっている。  史実における諸説を辿ると、マルグリットを暴行した人物は本当は全く別人だったとか、実は仮面を被った夫が暴行したなど、様々な憶測や噂話も入り混じり散見している。 実際に何が起こったかということは、600年後の現在において分かるはずもない。 「決闘裁判」などという暴挙が成立している時代である以上、生き残った者(妻も含めて)が一方的に語ったことが“真実”としてまかり通っていることも多分にあるだろう。 であるならば、「出来事」自体をもっと多面的に見えるように映し出し、「真実」そのものが乱立する構造にしても面白かったのではないかと思う。  いずれにしても、この映画を観た後では、史劇や事実を描いた他の様々な歴史映画においても、描き出される“真実”めいたものに対して、「別視点」を訝しく意識せずにはいられなくなる。
[映画館(字幕)] 7点(2021-10-17 16:07:26)
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